ユウジン

20.
 同じ高校の同じクラスの、休み時間も放課後も一緒にいた同級生は、今の大沢と比べてどれくらい親しく湖山のそばにいたのだろうか。肌を重ねるという物理的な距離ではない。試験勉強や、眠いばかりの授業、進学、受験、漠然とした未来。人生の一時をともにした誰かと、時間を隔ててまた会っても、きっと会わなかった時間なんてまるでなかったことのように感じる。人との出会いは、きっとそんなふうに出来ている。

 湖山の素肌に触れたことなどなくたって、まるで無垢な、少年と青年の狭間にいた彼の素の心に触れたのがあの男なら、大沢には絶対に超えられないのがあの男だという気がする。

 だから、彼だけは嫌だ。

 重たいドアのロックが外れる音がした。「ただいまー」と湖山が伺うように入ってくる。「ただいまー、大沢?」湖山の戸惑った声にもに大沢は何も答えなかった。

 リビングダイニングの入り口に姿を現した湖山は、大沢の姿を見て少しほっとしたように見えた。でもきっとすぐに恐怖に戦(おのの)くに違いないのにと大沢は残酷なことを思っていた。

 いつもと様子が違う大沢が何も答えないその理由を湖山は知っているはずだ。湖山はすこし逡巡した様子で、それから観念だか覚悟だかを決めて大沢の方へと近づいた。ソファに座る大沢の前にローテーブルを挟んで胡坐をかいて座った。

 「バレないと思った?」
 「何もないよ」
 同時だった。
 大沢は自分を見返している男に照準を当てるように一瞬目を眇めた。湖山はその一言を言い切って静かに大沢の言葉を待っているらしかった。
 「何かあってたまるか」
 湖山に届くか届かないか位の小さな声だった。
 「あるわけねーだろうが」

 大沢の声は震えていた。この腕も脚も理性を欠いて今にもこの男に飛びつこうとするその一方で、自分の声が震えているのは怒りのせいなのだろうかそれとも泣けてくるからなのだろうかと考えているくらいには冷静なのだろうか。

 湖山は何も言わない。湖山はいつもそうだ。言い訳をしない、何も教えてくれない。キスをしても、抱いても、好きだと言っても、湖山はただ目を伏せるだけで大沢に許すと伝えてくる。でもそれだけだ。ゆるしてくれているだけだ。

 「なあ、なんで何も言ってくんなかったの。なんであの映画なんだよ、なんであの人なんだよ?なんで?なんでだよ」

 何もなかったのは、保坂が大人だからだ。急いだり焦ったりしない大人だからだ。いつか、もしも。保坂がそうと決めたらあいつはいつだって湖山を自分のものにできるだろう。湖山は自分でもそうと気づかないまま目を伏せて保坂を許すだろう。大沢を受け入れたように、彼を愛する女たちを受け入れたように、保坂を受け入れるだろう。愛していると言う保坂を。「ユージン」と呼ぶ保坂を。

 なんであの人なんだよ
 大沢は幾度となく繰り返した言葉をまた反芻する。立ち上がってローテーブルを蹴飛ばして退かして、仰け反った身体を戻した湖山に対峙する。あご先をつまむと湖山は驚いていただけの目に何かを宿した。

 「保坂は友達だし、映画はたまたまあれにしようかってなっただけ。何も言わなかったのは、」
 そう言って湖山が大沢の手を払った。
 「トモダチだなんて、あの人は思ってない。湖山さん、あの人は、あんたのことトモダチだなんて思ってないよ。」
 大沢は払われた手でもう一度湖山のあごをつまんだ。そしてキスをする、寸前まで唇を近づけて言った。
 「あの人だってあんたにこういうことしたいんだよ。俺の唇を借りて、あの人が湖山さんにキスすることを想像するとキスできなくなるね」
 湖山は大沢の手首を掴んだけれど、今度は払わなかった。
 「馬鹿馬鹿しい。」
 湖山は顔を背けながら言って本人は一笑に付したと思っているらしかったけれど、それはあまりにも頼りなげ過ぎた。自分自身に言い聞かせようとした一言だったろうか、でも、失敗に終わっているはずだ。

 「『ザ・セブン・シーズ』の、ファーストエピソードは、湖山さん、あの頃付き合ってた彼女と行ったよね。エピソードIIのときはDVDを貸してくれた。エピソードIIIの時は思い出せないんだけど、エピソードIVのときには──」
 大沢は自分の手首を掴んでいる湖山の手首を掴み返した。やっと大沢を見た湖山と目が合った。
 「一緒に観に行った。」
 大沢は湖山の手首を掴んだままおろした。
 「朝、10時半に待ち合わせた。前の晩はカワサキさんの送別会だった。遅くまで呑んで終電で帰って、その電車で湖山さんは『待ち合わせの時間を遅らせよう』って言った。でも俺は酔っ払ったふりで断ったんだよ。『男に二言はない』って。もっと早くてもいいって思った。せっかく二人で出かけられるのに、一日一緒に居られるなら、30分も一時間も大差ないって思う?俺は思わなかった。5分だって早く会えたら、すげえ嬉しかった。そんなん、湖山さんには分からないかもしれないけど、きっとあの人だってそう思ってたはずだよ。待ち合わせの時間よりもずっと早く、あの人は湖山さんを待ってたはずだ。」

 大沢は一息に言った。
 「全部覚えてる。何度も何度も思い出して、頭の中で、何度も何度も繰り返しそのデートをしたんだ。待ち合わせに現れた湖山さんのジャケットとか、突風が吹いて目が細めたこととか、映画館のロビーでアイスコーヒーにミルクを入れた時、持ち運び用のトレーのバランスを崩してコーヒーが少し零れた時、ちょっと尖った湖山さんの口元とか、いつもは買わないのに俺、プログラムを買って、記念にね、湖山さんがどのページを真剣に読んでたかとか、そのページ擦り切れる位なんども見た。それから映画が終わって、ポップコーンと飲み物のトレーを捨てるとき、小さな子が走って来てすれ違って、湖山さんにぶつかりそうになって、湖山さん、その子の頭を撫ぜたよね。それから映画館を出て、ゲームセンターの前で俺がプリクラ撮ろうって騒いだ。湖山さんはしらんぷりで、ゲームセンターの前の靴屋でスニーカーを見始めて、ベージュに紫のラインが入ってたよね・・・。そのラインを指でなぞっていい紫だよねって。まだまだ覚えてるよ、全部言えるよ。全部、最後に、湖山さんが電車降りて、改札に上がる階段の下で俺が乗ってる電車に手を振ってくれるところまで、全部。」 

 遠く、そこにその日が見えるような気がした。
 やっと現実に引き戻されて、大沢はもう一度言う。
 「──きっと、あの人だって・・・・。」
 湖山はもう、目を逸らさなかった。