18.
「トマトが入っているんだね」とかなんとか、そんなことを言うんだろうと思っていた。別に言ってほしいという訳ではない。でも、きっとそう言って大沢を見て微笑むだろうとなぜか具体的に想像していた。けれど今目の前の湖山は黙々とスパゲティーを口に運んでいる。
大沢がじっと見ていると、それに気づいた湖山はスパゲティーを運んだ手を止めて
「なに?」と訊いた。ほんの少し、挑戦的に。
「な、に、って・・・・。いや、別に。」
ミートソースにのった肉の塊をフォークでつつきながら大沢は賢しげに「今は"その時"じゃない」と判断する。もっと何でもないこと、当たり障りがないことを探して映画を観にいこうか、と二人の週末について改めて提案してみる。湖山の反応がいつもと違うのは、きっと自分のせいだ。それが分かっていても今がふさわしい時だとは思えなくて、大沢はただ湖山を伺った。
湖山はスパゲティと”何か”を咀嚼している。トマトを突いている。でもやはり「トマトが入っているんだね」とは、言わなかった。
* * *
遠い昔にこういうドラマが日本でも流行った。父母の世代がまだ若かった頃だ。切れ者で人格者、ちょっと変わり者のリーダーと、彼に惹かれて徒党を組む男達。そこに紅一点で美しい女性が加わっている。彼女はとても仕事ができて、度胸が据わっているし、そんじょそこらの男達ではかなわないような武術の使い手であるにも関わらず、スタイルがよくて、女性らしい魅力に溢れている。
今年で「VIII(エイト)」と銘打っているのだから、八年も経つのだろうか?毎年って訳ではなかったと思うから実際にはもっと経ってるのかもしれない。
この映画のファーストエピソードの時、湖山はその当時付き合っていた女性と観に行った。大沢はそれをよく覚えている。湖山を好きだと自覚したちょっとした事件だったからだ。大沢は思春期になって自分の性的嗜好に気づき始めていたが、異性がだめだという訳ではなかった。むしろ異性と付き合っていくうちに何か少しずつずれてくることに気づいた。部活の先輩や後輩、同級生の中になんとなくいいな、と思う男がいても、自分を騙し騙しうまくやって、そのうちに同じような嗜好の男達がどうしているのか分かってくる。そうなればもっと簡単だった。
なんとなくいい、とある男を思ったとしても、その恋が実るということはほとんどない。よほど、運よく相手が同じような性的嗜好であればその恋は実るだろうけれど、そういう恋愛は、たとえば学校や、サークルや、職場にそうそう落ちていることはない。それに非常によくにた形の恋を得るためには、時間と労力と精神力ともちろんお金も多少掛かる。毎週毎週ここはと思うバーに通うなんていうのは学生や社会人なりたての輩にはできっこないからだ。
だから、大沢の恋というものはたいてい実ったことはなくて、ただ器用に恋心をだまくらかして、欲望をなだめすかして、なんとかやっていくものだった。
湖山に出会うまでは、湖山に抱いている自分の気持ちに気づくまでは、うまく行っていたのだ。
大沢は自分の背よりも高い位置に貼られた宣伝用のそのポスターをぼんやりと見上げていた。あの時の戸惑いを昨日のことのように思い出すことができる。ごまかし切れない、と気づいた。それまで感じたことのない胸の痛みは大沢の鳩尾(みぞおち)あたりから細い針金のようなものをどんどん吐き出して、あっという間に大沢を縛りつけて締め付けた。そのときの痛みも、たったいま、この瞬間にも感じることができる。それまでの恋と何が違うのだろう。けれど、この恋だけが、自分をこれほど痛めつけ、縛りつけ、執拗に雁字搦めにするから、諦めようにも諦められずにここまできた。
エピソードIIのときはDVDになって、湖山が大沢に貸してくれた。エピソードIIIの時はどうしただろうか。エピソードIVのときには一緒に見に行った。どんなに嬉しかったか。それからエピソードVは湖山はやはり女性と観にいった。あのときは大沢も陽子と観に行ったのだ。陽子に散々文句を言われたことを思い出す。エピソードVIは見逃した。あの秋は色々あった。エピソードVIIは湖山さんと・・・・。
そんな風にぼんやりと過去の自分と向かい合う。
冷めた缶コーヒーを揺すりながら、大沢はやっとポスターから目を離し、自分を覗き込んだ女性と目が合った。
大沢がぼんやりとポスターを見上げていたのは、昭栄出版の入っているビルの一階だった。一階のロビーは壁際のところどころに黒い長椅子が置いてあり、昭栄出版の刊行物のポスターや、同じビルに入っている保険会社のがん保険のポスターなども貼ってある。缶とペットボトルの自動販売機、カップ飲料の自販機もあり、ビルに出入りするビジネスマン達がほんの少しの憩いをもぎ取るスペースだった。
「あぁ、やっぱり。後姿がもしかしたらそうかもと思って・・・・」
昭栄出版の総務部の女性だった。
「その映画、面白いらしいですよねー。もうエイトでしょー、一度見逃しちゃうとなぁって思ってたんですけどねえ、ホサカ編集長が初めてでも面白かったって言ってたから。」
「へー、なんか意外。保坂さんってこういう俗っぽい映画も観るんだね。なんとなくこういう映画を毛嫌いしそうな雰囲気なのに。」
「やだ、大沢さん、鋭い。確かにそういう感じ。あ、でもほら、『初めて』見たって言ってたからやっぱり普段はそういうの見ないんじゃないですか?私も、あの辛口のホサカ編集長が面白いっていうなら本当に面白いのかも、って思って。」
「俺、これは【I(いち)】から観てるけど、確かに面白いよ。それに、途中抜けてても多分楽しめると思う。辛口の保坂編集長のお勧めだけあると思うよ」
「へえ、そっかぁ、じゃあやっぱり観にいこうかなぁ…。でもなぁ・・・これって男の人は楽しめるけど、って感じしません?大沢さんの奥さん、こういうの一緒に観てくれます?」
「え・・・・?あ、あぁ、うん、そうだね、確かに一度すっごい文句言われた記憶がある。でも、だからって訳でもないけど、彼女とは観に行かないかな、大体いつもうちの湖山と一緒に行くんだよね、仕事以外でもつるんでるってなんか、アレだけど。」
「ふうん。じゃ、今回はどうするんですか」
「え?」
「だって、湖山さんはもう観に行っちゃったんでしょ?」
── 湖山さんが観に行った?誰と?あぁ、保坂と、か?いや・・・まさか・・・
そういう、ことか。
トマト入りのミートソース。
映画を観に行こう、と誘った時の間。
冷蔵庫の前で見ていたスマホ。
週末の予定
もしかしたら、もっと、ずっと前から ───
「トマトが入っているんだね」とかなんとか、そんなことを言うんだろうと思っていた。別に言ってほしいという訳ではない。でも、きっとそう言って大沢を見て微笑むだろうとなぜか具体的に想像していた。けれど今目の前の湖山は黙々とスパゲティーを口に運んでいる。
大沢がじっと見ていると、それに気づいた湖山はスパゲティーを運んだ手を止めて
「なに?」と訊いた。ほんの少し、挑戦的に。
「な、に、って・・・・。いや、別に。」
ミートソースにのった肉の塊をフォークでつつきながら大沢は賢しげに「今は"その時"じゃない」と判断する。もっと何でもないこと、当たり障りがないことを探して映画を観にいこうか、と二人の週末について改めて提案してみる。湖山の反応がいつもと違うのは、きっと自分のせいだ。それが分かっていても今がふさわしい時だとは思えなくて、大沢はただ湖山を伺った。
湖山はスパゲティと”何か”を咀嚼している。トマトを突いている。でもやはり「トマトが入っているんだね」とは、言わなかった。
* * *
遠い昔にこういうドラマが日本でも流行った。父母の世代がまだ若かった頃だ。切れ者で人格者、ちょっと変わり者のリーダーと、彼に惹かれて徒党を組む男達。そこに紅一点で美しい女性が加わっている。彼女はとても仕事ができて、度胸が据わっているし、そんじょそこらの男達ではかなわないような武術の使い手であるにも関わらず、スタイルがよくて、女性らしい魅力に溢れている。
今年で「VIII(エイト)」と銘打っているのだから、八年も経つのだろうか?毎年って訳ではなかったと思うから実際にはもっと経ってるのかもしれない。
この映画のファーストエピソードの時、湖山はその当時付き合っていた女性と観に行った。大沢はそれをよく覚えている。湖山を好きだと自覚したちょっとした事件だったからだ。大沢は思春期になって自分の性的嗜好に気づき始めていたが、異性がだめだという訳ではなかった。むしろ異性と付き合っていくうちに何か少しずつずれてくることに気づいた。部活の先輩や後輩、同級生の中になんとなくいいな、と思う男がいても、自分を騙し騙しうまくやって、そのうちに同じような嗜好の男達がどうしているのか分かってくる。そうなればもっと簡単だった。
なんとなくいい、とある男を思ったとしても、その恋が実るということはほとんどない。よほど、運よく相手が同じような性的嗜好であればその恋は実るだろうけれど、そういう恋愛は、たとえば学校や、サークルや、職場にそうそう落ちていることはない。それに非常によくにた形の恋を得るためには、時間と労力と精神力ともちろんお金も多少掛かる。毎週毎週ここはと思うバーに通うなんていうのは学生や社会人なりたての輩にはできっこないからだ。
だから、大沢の恋というものはたいてい実ったことはなくて、ただ器用に恋心をだまくらかして、欲望をなだめすかして、なんとかやっていくものだった。
湖山に出会うまでは、湖山に抱いている自分の気持ちに気づくまでは、うまく行っていたのだ。
大沢は自分の背よりも高い位置に貼られた宣伝用のそのポスターをぼんやりと見上げていた。あの時の戸惑いを昨日のことのように思い出すことができる。ごまかし切れない、と気づいた。それまで感じたことのない胸の痛みは大沢の鳩尾(みぞおち)あたりから細い針金のようなものをどんどん吐き出して、あっという間に大沢を縛りつけて締め付けた。そのときの痛みも、たったいま、この瞬間にも感じることができる。それまでの恋と何が違うのだろう。けれど、この恋だけが、自分をこれほど痛めつけ、縛りつけ、執拗に雁字搦めにするから、諦めようにも諦められずにここまできた。
エピソードIIのときはDVDになって、湖山が大沢に貸してくれた。エピソードIIIの時はどうしただろうか。エピソードIVのときには一緒に見に行った。どんなに嬉しかったか。それからエピソードVは湖山はやはり女性と観にいった。あのときは大沢も陽子と観に行ったのだ。陽子に散々文句を言われたことを思い出す。エピソードVIは見逃した。あの秋は色々あった。エピソードVIIは湖山さんと・・・・。
そんな風にぼんやりと過去の自分と向かい合う。
冷めた缶コーヒーを揺すりながら、大沢はやっとポスターから目を離し、自分を覗き込んだ女性と目が合った。
大沢がぼんやりとポスターを見上げていたのは、昭栄出版の入っているビルの一階だった。一階のロビーは壁際のところどころに黒い長椅子が置いてあり、昭栄出版の刊行物のポスターや、同じビルに入っている保険会社のがん保険のポスターなども貼ってある。缶とペットボトルの自動販売機、カップ飲料の自販機もあり、ビルに出入りするビジネスマン達がほんの少しの憩いをもぎ取るスペースだった。
「あぁ、やっぱり。後姿がもしかしたらそうかもと思って・・・・」
昭栄出版の総務部の女性だった。
「その映画、面白いらしいですよねー。もうエイトでしょー、一度見逃しちゃうとなぁって思ってたんですけどねえ、ホサカ編集長が初めてでも面白かったって言ってたから。」
「へー、なんか意外。保坂さんってこういう俗っぽい映画も観るんだね。なんとなくこういう映画を毛嫌いしそうな雰囲気なのに。」
「やだ、大沢さん、鋭い。確かにそういう感じ。あ、でもほら、『初めて』見たって言ってたからやっぱり普段はそういうの見ないんじゃないですか?私も、あの辛口のホサカ編集長が面白いっていうなら本当に面白いのかも、って思って。」
「俺、これは【I(いち)】から観てるけど、確かに面白いよ。それに、途中抜けてても多分楽しめると思う。辛口の保坂編集長のお勧めだけあると思うよ」
「へえ、そっかぁ、じゃあやっぱり観にいこうかなぁ…。でもなぁ・・・これって男の人は楽しめるけど、って感じしません?大沢さんの奥さん、こういうの一緒に観てくれます?」
「え・・・・?あ、あぁ、うん、そうだね、確かに一度すっごい文句言われた記憶がある。でも、だからって訳でもないけど、彼女とは観に行かないかな、大体いつもうちの湖山と一緒に行くんだよね、仕事以外でもつるんでるってなんか、アレだけど。」
「ふうん。じゃ、今回はどうするんですか」
「え?」
「だって、湖山さんはもう観に行っちゃったんでしょ?」
── 湖山さんが観に行った?誰と?あぁ、保坂と、か?いや・・・まさか・・・
そういう、ことか。
トマト入りのミートソース。
映画を観に行こう、と誘った時の間。
冷蔵庫の前で見ていたスマホ。
週末の予定
もしかしたら、もっと、ずっと前から ───


