16.
相手は陽子だというのにそわそわして家を出た。気が急いた。待ち合わせはコーヒー一杯に千円もする所謂正統派の喫茶店だった。珈琲も美味いと知っていたし早めに入って落ち着いていても良かったのだけれど、きっとじっと座っていられないような気がして隣の家電量販店を覗いてDVDを二枚買ったらそろそろ遅刻ギリギリの時間だった。エレベーターを待つことができずに階段を走って降りた。
息を切らしながら喫茶店に入る。奥まった段差のあるスペースで陽子は頬杖をついていて大沢を認めると少し身を傾いで手を上げた。
「ひさしぶり」
いつかと同じように、あるいはいつものように、言う。夫に、妻に、「ひさしぶり」というカップルはこの世にどれくらいいるのだろう。陽子は、そして、まるでなんでもないことのように言った。
「で、別れたいって?──いつ言い出すかと思ってた」
陽子は微笑んでいた。湯気の立っていないコーヒーカップの縁に薄くコーヒーのしずくが乾いていて、陽子の爪はその日も綺麗に艶やかに整えられていた。左手の薬指の指輪は依然としてそこにある。赤い絨毯を背景に自分の指が彼女のその指をくぐらせた、その景色が今も鮮やかに蘇った。
『誓います』
って、あの時、何を誓ったというんだろう。安っぽい映画のようだった自分の愚かしい宣誓がどこまでもどこまでも自分を追いかけて来る。
けれどもうそれも終わる。もう、終わる。終わるのだ。
* * *
缶詰のソースも利用する簡単なミートソースだが大沢が作るこのミートソースを湖山はとても気に入っていたはずだ。何が食べたい?と大沢が献立に迷って尋ねると、湖山はたいがいスパゲティがいいと言い、それは必ずミートソースのことを言っているのだった。だから陽子と会った帰りにわざわざ駅の反対側の安くて新鮮さが売りのスーパーに寄って玉ねぎとミートソース缶を買った。牛乳、パスタ、卵はあっただろうか、それから、一度は通りすぎてから、通路を戻って熟した大きなトマトも買った。本屋の入り口に積んであった料理番組のムック本に載っていたのを早速まねてみようと思ったのだった。本屋では住宅情報誌だけを買った。引越しするのだから余計な荷物はたとえ料理本一冊でも少ない方がいい。その日の朝手持ち無沙汰にDVDを二枚買ってしまったことを棚に上げてそんなことを考えていた。
手際よく玉ねぎを炒め、さらにひき肉を入れて炒める。それから…、トマトを…、それから、ソース缶を…。もう出来上がりだ。
あとは、湖山が帰ってくる時間に合わせてパスタを茹でて・・・・。
食べながら昼間に買ったDVDを観よう。食べながら観るのはよそうよ、ときっと湖山は言うだろう。でも二枚もあるんだから今日だけは食べながら観ても・・・・。
けれど、携帯電話はピリとも鳴らなかった。時計は5時を回っている。そういえば誰とどこへ行ったんだろう、と大沢はふと思うが、ここ数日イライラしてたせいか熟睡できていなかったのだ、ソファに身体を横たえてつい眠ってしまった。
目がさめると夜の8時だった。テレビがついたままで、法律の穴をつついて騒ぐバラエティー番組が流れている。スマートフォンを確認すると、湖山からメールが入っていた。
『メシ、外で食べて帰るから、大沢もよかったら外で食べて来て。遅くなるかもしれないです』
「っんだよ・・」
一人分のパスタを茹でて、一人だけで食べる気はしない。
大沢は枕にしていたクッションをポフッとグーで殴ってもう一度体を横たえた。
買ってきた住宅情報誌をパラパラとめくる。
単身者用では狭い。2LDK。3LDKあれば暗室を作れるけれど、郊外から出勤するのはきっと辛いな…。
読みかけた情報誌をソファに置いて、大沢は重たい身体を起こした。シャワーを浴びて、ベッドで横になろう。パスタは明日食べればいい。
早く帰ってきてくれたらいいのに。話したいことがたくさんあった。たったの数週間。自分のくだらない意地に付き合わせた時間は、どれほど長かったのだろうか、無駄に浪費したような気もした、それでも、大沢にとっては大事な意味のある時間だった。
なんて切り出したらいいだろう。
「ふたりの家を、探そう。」
そう、それがいい。
相手は陽子だというのにそわそわして家を出た。気が急いた。待ち合わせはコーヒー一杯に千円もする所謂正統派の喫茶店だった。珈琲も美味いと知っていたし早めに入って落ち着いていても良かったのだけれど、きっとじっと座っていられないような気がして隣の家電量販店を覗いてDVDを二枚買ったらそろそろ遅刻ギリギリの時間だった。エレベーターを待つことができずに階段を走って降りた。
息を切らしながら喫茶店に入る。奥まった段差のあるスペースで陽子は頬杖をついていて大沢を認めると少し身を傾いで手を上げた。
「ひさしぶり」
いつかと同じように、あるいはいつものように、言う。夫に、妻に、「ひさしぶり」というカップルはこの世にどれくらいいるのだろう。陽子は、そして、まるでなんでもないことのように言った。
「で、別れたいって?──いつ言い出すかと思ってた」
陽子は微笑んでいた。湯気の立っていないコーヒーカップの縁に薄くコーヒーのしずくが乾いていて、陽子の爪はその日も綺麗に艶やかに整えられていた。左手の薬指の指輪は依然としてそこにある。赤い絨毯を背景に自分の指が彼女のその指をくぐらせた、その景色が今も鮮やかに蘇った。
『誓います』
って、あの時、何を誓ったというんだろう。安っぽい映画のようだった自分の愚かしい宣誓がどこまでもどこまでも自分を追いかけて来る。
けれどもうそれも終わる。もう、終わる。終わるのだ。
* * *
缶詰のソースも利用する簡単なミートソースだが大沢が作るこのミートソースを湖山はとても気に入っていたはずだ。何が食べたい?と大沢が献立に迷って尋ねると、湖山はたいがいスパゲティがいいと言い、それは必ずミートソースのことを言っているのだった。だから陽子と会った帰りにわざわざ駅の反対側の安くて新鮮さが売りのスーパーに寄って玉ねぎとミートソース缶を買った。牛乳、パスタ、卵はあっただろうか、それから、一度は通りすぎてから、通路を戻って熟した大きなトマトも買った。本屋の入り口に積んであった料理番組のムック本に載っていたのを早速まねてみようと思ったのだった。本屋では住宅情報誌だけを買った。引越しするのだから余計な荷物はたとえ料理本一冊でも少ない方がいい。その日の朝手持ち無沙汰にDVDを二枚買ってしまったことを棚に上げてそんなことを考えていた。
手際よく玉ねぎを炒め、さらにひき肉を入れて炒める。それから…、トマトを…、それから、ソース缶を…。もう出来上がりだ。
あとは、湖山が帰ってくる時間に合わせてパスタを茹でて・・・・。
食べながら昼間に買ったDVDを観よう。食べながら観るのはよそうよ、ときっと湖山は言うだろう。でも二枚もあるんだから今日だけは食べながら観ても・・・・。
けれど、携帯電話はピリとも鳴らなかった。時計は5時を回っている。そういえば誰とどこへ行ったんだろう、と大沢はふと思うが、ここ数日イライラしてたせいか熟睡できていなかったのだ、ソファに身体を横たえてつい眠ってしまった。
目がさめると夜の8時だった。テレビがついたままで、法律の穴をつついて騒ぐバラエティー番組が流れている。スマートフォンを確認すると、湖山からメールが入っていた。
『メシ、外で食べて帰るから、大沢もよかったら外で食べて来て。遅くなるかもしれないです』
「っんだよ・・」
一人分のパスタを茹でて、一人だけで食べる気はしない。
大沢は枕にしていたクッションをポフッとグーで殴ってもう一度体を横たえた。
買ってきた住宅情報誌をパラパラとめくる。
単身者用では狭い。2LDK。3LDKあれば暗室を作れるけれど、郊外から出勤するのはきっと辛いな…。
読みかけた情報誌をソファに置いて、大沢は重たい身体を起こした。シャワーを浴びて、ベッドで横になろう。パスタは明日食べればいい。
早く帰ってきてくれたらいいのに。話したいことがたくさんあった。たったの数週間。自分のくだらない意地に付き合わせた時間は、どれほど長かったのだろうか、無駄に浪費したような気もした、それでも、大沢にとっては大事な意味のある時間だった。
なんて切り出したらいいだろう。
「ふたりの家を、探そう。」
そう、それがいい。


