ユウジン

15.
その週末が、数週間前に湖山と"一緒に出かけよう"と話していた週末だったと気づいたのは「出かけるから」と湖山に伝えた時だった。もっと正確に言うと「出かけるから」と言った時に湖山が「俺も」と答えたからだ。──『湖山さんも休みだったんだっけ…あぁ、そうだ、そうだった』
「出かけるの?」とは訊かなかった。自分がどこへ誰に会いに行くのかを言いたくなかったからだ。
先延ばしにしてきたことを今更言い訳のように並べるのも嫌だった。ただ正直にけじめの一歩を踏み出すつもりだと湖山に言えば、湖山は喜ぶのだろうか。それとも何でもないような顔で「そう?」と首を傾げるのかもしれない。言おうかなと思う、口を開きかけた瞬間にいつも、脳裏で保坂が勝ち誇ったように笑う。
『奥さんがいらっしゃるんでしょ?』
大沢はそんな考えを振り切るようにしてシャワーを浴びていた。大沢がベッドを出たとき湖山はまだ寝ていた。湖山も出かけると言ってたけれどゆっくり時間に急がされずに出かけるのだろうか。一人きりで週末の雑踏を歩いて、一人きりでファーストフードに入ってランチセットを食べて、映画を観て…?
やっぱり言おうか…。
急いで体を拭って寝室に入ったときそこに寝ていると思った湖山はもういなかった。冷蔵庫を閉めた音が聞こえる。まだ出かけてはいないんだな。なんとなく力が抜けた。大沢はタオルを首にかけたままクローゼットを開ける。一番気に入っているシャツを手に取って被った。それからやっぱり勝負シャツを着ようと思い直した。青いボタンダウンのシャツは学生時代から気に入って着ていたが、就職して湖山のアシスタントになって、普段無口な湖山が酔って饒舌になってこのシャツを褒めてくれたことがあった。「晴れた日の空みたいに青いあのシャツは大沢君にほんとよく似合ってるよ」
いつも余計なことを言わない湖山が唐突にそう言った。寒い冬の夜の息の白さ、彼の上気した頬、コート越しに感じる彼の骨格の薄さ。気難しげに見える彼の笑ってしまうほど素直な無邪気な言葉。彼のたった一言で、そのシャツは大沢の一生もんになった。色が褪せて袖口が傷んであれから二度程買い換えたけれど同じブランドの同じブルーのボタンダウンのシャツを買った。馬鹿みたいにそのシャツを大切にした。
大事にしたい。湖山を大事にしたいと思う。
自分にはそれができるんだろうか。─── 。 いや、それでも。
勝負シャツのカフを止める。心に決めたことをもう一度確かめるように。
その時、ペットボトルの水を手にした湖山が入って来てキャビネットの中のアンダーシャツを掴んだ。それから手にしていたペットボトルを少し掲げて「飲む?」と大沢に尋ねた。「いや」と答えて、今から出かけることをなんて切り出せばいいのか考えているうちに湖山はシャワーを浴びに行ってしまった。
いざ言おうと思うとどう言えばお互いに気まずくならないのか分からない。けれど、「遅くなるかも」と言った湖山が時計を見ながら支度を始めたのを見たとき大沢は胸がざわざわと落ち着かずに、言い出すきっかけなど永遠に来なくていいという気がした。