ユウジン


12.
「大沢・・・?」
と湖山が呼ぶ声にはっと我に返った。
湖山の手がマンションのドアを開けて待っていた。
いつになく言葉少なく、どちらかが何を確認するでもなく、ただそれが当然そうであることとして、同じ駅へ向かい、同じ階段を上り、同じホームから同じ電車に乗って、同じ電車に乗り換えて、同じ駅で降りた。どちらともなく、歩調を揃えるようにして、このマンションの前に、この部屋の前に立ち、湖山は鍵を開けて、ふたりはこの部屋へあがる。
ひさしぶりに入るその部屋の匂いは、大沢が憶えているよりもぐっと色濃く、大沢はその濃さに眩暈を覚えた。

コポポポポポポと水槽の立てる音がいやにはっきりと聞こえた。薄青い光を背に受けた湖山はいつになく儚げに見える。こうしてみるとほんの数週間の間に少しほっそりしたようにも見える。「痩せた?」と尋ねかけて止める。そんなことが訊きたいわけではなかった。
「湖山さん」と、大沢が湖山を呼ぶのと、「大沢」と、湖山が大沢を呼ぶのが同時だった。
「何?」と、ふたり同時に答える。
湖山はふっと笑う。ほっそりとした手を自分の肩にやって、大沢を見やった。その腕まくりをしたシャツの下から筋がすうっと手首のほうに走っているのを見ると、大沢は何かに憑かれたように手を伸ばす。湖山の腕に届いた中指ですっとその筋をなぞった。
ピクリと湖山が肩を動かして、自分の肩を抱いていた手で大沢の手を掴んだ。大沢は手首を回すようにしてその湖山の手を掴み返した。湖山の瞳が揺れているように見える。
自分の手のひらにおさまってしまうほどの湖山の手首を、大沢はなぜだか許せないと思った。こんなふうだから、だれかがこの男を容易く自分のものにしようとするのだ、と、頭の半分では妙な言いがかりだと分かっていながら、それでも頭にくる、と思わずにいられなかった。
「頭にくる」
と、大沢の想いはつい口をついて出た。
「何…?」
戸惑った湖山の表情がまた大沢の苛立ちを増幅させる。
「頭くるって、言ったの・・・!」
どしん、と思いの外大きな音を立てて、大沢は湖山を壁に押し付ける。なし崩しにしてしまう。大切なことを言えないまま、こんなのはよくない。色々な正論が頭をかすめるけれど、もうどうでもいいや、という気がした。
「ちょっと待って」と湖山が抗う。何をちょっと待つのか。いつかと同じようにめぐる疑問を大沢はもう捨て去ることしか考えない。あいつもこうやって、湖山を抱きたいと思っているに違いないんだ、とそう思うだけで身体中の血が滾る。怒りが沸いて、それは、誰のせいでもないと分かっているのに、目の前にいる男をめちゃくちゃにしてやらなければならないような考えに取り付かれてしまう。
「・・・んとに、もう、やだ」
湖山のシャツの肩口に額を押し付けて、大沢は悔し涙を溢さないように歯を食いしばる。それだから、もう、どんな言葉も彼の口からはこぼれなかった。

* * *
どうやらご機嫌は直ったのだろう、と湖山は思っているらしかった。大沢が無口なのは、昨晩、散々湖山を嬲り倒したからだとでも思っているのだ。そういう湖山だって疲労感をあらわにしていた。でも本当に無口な理由はそんな馬鹿げた理由ではない。それでも、湖山が気だるげにではあるが機嫌よく部屋のそこここに散らばった洗濯物やリモコンを拾い洗面所やキッチンを行き来しているのを見るのは何かにつけて苛立ちを募らせそうになる大沢を少しは癒す。
「今夜は遅くなる?」
と湖山が訊いた。牛乳パックを冷蔵庫に戻しながら「わからない」と、大沢は憮然として答える。「明日は?」と湖山は重ねて尋ねた。珍しいことだったので、大沢は少し戸惑い「何で?」と問う。
「いや、別に。ここのところずっと」と、湖山は言ってテレビに目線を移した湖山は「怖いね」と急にニュースに反応する。言いかけたことを放り投げた湖山を胡乱気に見て、大沢はけれど、それ以上尋ねもせずにシャワーへ向かった。
「ここのところ、ずっと」──”遅かったから”? ”帰らなかったから”? それとも── ”来なかったから”?
続けようと思ったのは、どの言葉だったのだろう。
いつかそんなことを言ったことがあった。「今日はもう、来ないと思った」と言った湖山に、いつかは「お帰りなさい」って言ってほしい、大沢がここへ帰って来ることが当たり前になったらいいのにと、そんな風に言った。あの頃の自分は、この部屋にいるそのことだけで幸せだったはずなのに。ここが帰る場所だとそう思って欲しいし、そう思いたかったはずなのに。
昨日の電話で「こっちに来るの?」と陽子は言ったろうか?それとも「こっちに帰ってくるの?」と言ったろうか?疲れた声だな、と思ったことだけは覚えているけれど、と大沢は思い出す。それからこの週末に陽子と会って話すことを、ひとつひとつ箇条書きにするように頭の中にリストアップして行った。

シャワーを出ると、サラダとトーストが用意してあった。
「目玉焼きでいい?」
と、湖山が尋ねるので、大沢は「うん」と答える。
湖山は少し鼻歌を歌うように冷蔵庫を開ける。卵を二つ手に取って、フライパンをレンジ下から取るときほんの少し屈み、「ててて」と腰に手をやった。
いつものように、「俺がやるよ」と言えばいいのに言えない。自分のために何かをしてくれる湖山を今はただ見ていたいと思う。
じゅっと音を立てて、湖山が得意そうに口を曲げる。卵を割るときに失敗しなかったんだな、と大沢は些細なことを考える。それでいい、と思う。なのに気持ちは晴れない。