10.
その日は、昭栄出版での打ち合わせだった。湖山もだ。午前中は別々の現場にいたので別々に昭栄出版に入る。エレベーターに乗りちょうど打ち合わせ室のあるフロアに降りたところで携帯電話が鳴った。陽子からだった。
海外出張から戻ったところだが、どうも部屋に大沢の形跡があるので今夜はこっちに来るのかという確認の電話だった。
「それなら買い物しておくし。」
と、陽子が少し疲れたようにため息交じりの声で言った。「いや、今日はそっちに行かない。」「でも、いずれちゃんと話したいから時間を作ってほしい」と大沢が言うと陽子は「分かった」と、その場でスケジュールを確認し日取りを約束した。どんなに疲れていても、自分がやるべきこととそうでないことの判断を誤らないし、目を逸らさない。そういうところが陽子らしいよなあと通話終了のボタンを押しながら大沢は苦笑したのだった。
凭れていた窓辺から身体を起こして携帯電話をパンツのポケットに押し込みながら、電話の途中でロビーを横切っていく保坂と目が合ったのを、大沢は苦々しく思い出した。大きな窓ガラスに映った見覚えのある影に振り向いたとき、こちらを見ていた保坂は親しげに右手を上げ会釈をして通りすぎて行った。その顔に浮かんだ笑みがどこか勝ち誇ったようにも見えたのは、大沢の穿った見え方だろうか。
そしてロビーから打ち合わせ室に伸びる廊下に差し掛かったところで、湖山がいるはずの打ち合わせ室のドアから出て行く保坂が見えた。保坂は手ぶらだった。書類も、ペンすら持っていないように見えた。ただ湖山に顔を見せただけだったのだろう。ただ顔を見せただけ。ただ顔を見ただけというのは、十分不穏だ。
打ち合わせ室を覗くと湖山はテーブルの白い天板に肘をついて背後を振り向く姿勢で窓の外をぼんやりと眺めていた。開け放したドアをコツリと叩いて踏み出すと驚いたようにビクリと肩をいからせて大沢を振り向き「よう」と片手を挙げた。「どうも。」大沢もつとめてさりげなく答えて湖山の隣の椅子を引いた。ほんの数センチ、湖山から距離を取る。意地でそんなことをしてみても、そのほんの数センチを悔しく思うのは自分だけだから余計に悔しかった。
大沢が椅子に落ち着くのを見計らったように湖山が午前中の仕事の内容をいつもと変わらぬ調子で話していたが、いったい何を話していたのか大沢の耳には少しも届かなかない。
目の前にいるこの男が、あの忌々しい男の腕の中に抱きすくめられて「ほら、僕の方がずっと・・・・」と言い寄られる場面が浮かんだ。
その瞬間が、打ち合わせの約束の時間ぴったりだった。男は、打ち合わせ用のノートとペンを持って現れた。湖山に微笑みかけ、大沢に微笑みかけた。ビジネスライクにも見えるし、同時にそれよりも少し親しげな様子で、世間話のひとつやふたつを挟み込みながら打ち合わせをスムーズに終わらせる。
「ユウジン、大沢君も、今夜の予定はどう?夕飯、一緒にできないかな?」
ぐっと喉が詰まった。けれど、大沢が答えを探す間もなく、湖山が
「ごめん。今日はちょっと。」
ニコリと笑いながら、大沢が戸惑うくらいにそっけないといえばそっけなく、いやにハキハキとした断り方だった。
「そっか、残念。ではまた今度にしよう。」
保坂は案外あっさりと引き下がり、大沢は少し拍子抜けした。今から思えば、あの、少しも残念そうではない、その様子が気になる。それも大沢の穿ちすぎだろうか。保坂のことになるといささか考えすぎる。
それでも湖山のはっきりとした断り方は清清しいくらいで、大沢は現金にもそんな些細なことで気分が上向いた。


