アフロディーテ




給水所でカップにコーヒーを注いでいると、苦くてしっとりした香りがゆっくり身体に侵入してくる。
私はコーヒーが好きだ。ここのコーヒーの豆はいいものを使っているんだろう。香ばしくて上質な香り、味も確かだ。市販で売っているものなんかよりだいぶいいものだと思う。


由梨は、コーヒーを作ることだけは下手だった。その他はなにもかも、料理も勉強も仕事も、容姿も人としてのなにもかも完璧なのに、コーヒーだけはいつもまずかった。

彼女のコーヒーは濃すぎる。そしてひどく甘い。シロップを生で舐めるのと同じくらいに甘いのだ。
何度言ってもひどい出来だった。私が作らなくてもいいと言っても、由梨は私の仕事帰りにいつもコーヒーを用意していた。湯気がたつほど熱くて、甘くて、強烈な風味を残す彼女のコーヒーを、私たちの関係が歪になり始めた今でさえ、すでに寝静まった深夜のワンルーム、二人用の小さめのテーブルにひとつ。
由梨のコーヒーは、いつも冷めることはなかった。


ーーー


「里枝、またそんなところで寝てるの?だめだよ、ちゃんとお風呂はいってからベッドで寝ないと」

「今日どこいく? 里枝の好きなところならどこでもいいよ」

「いいの、気にしないで。そりゃ少しは気に入ってた物だけど、割れちゃったんだから仕方ないよ」

【由梨っていい子よね】
【素直で大人しくて可愛くて、完璧じゃない】
【里枝と仲良いことが本当に不思議】
【あんたも見習いなよ】


ーーーーー高嶺の花。

彼女は高貴すぎる。何もかもが美しすぎる。嫉妬とか、僻みとか、そういうものとは少し違う。ただ彼女の恐ろしいまでに美しい姿を、私は間近で感じ過ぎたのだ。彼女に触れることは神の領域に入り込むような、禁忌を犯すことと同じように思えるのだ。

学内ですれ違うたび、あの子の香りを追って足を止めていたあの頃の方が、私と由梨は対等だったのだ。

側にはいられない。私にはあの清らかな重さを感じ続けていくことには耐えられない。

それでもどんなに新しいものが注ぎ込まれようと、長い月日をかけて染み付いたものが消えるわけじゃない。私の中にはいつも彼女の香りがする。彼女のあの花の香りと、あの子がつくる濃いコーヒーの香りだけは消えない。

それが何度洗おうとぬぐえない、私の中の真実なのだ。