仕事中だろう、忙しいだけだ。
きっと、木森はごく普通に自然且つ悪気のない返信をする。
【そういえば、そうか!】そういう人だと思う。そのはず。なんだかトボけていて間抜けな彼の顔を思い浮かべる。
......それとも、【ウンウンダイジョウブ! うちの奥さん、そんな事で怒らないから】とか、【実は今、離婚秒読みなんだ......慰めてほしい】とか、【でも君が好きなんだ】とか書いて来たら?
嫌いになる。
嫌いになる。
あれ? それでいいじゃない。それであんなデブメガネとは関係がなくなる。
困るのはアルバイト先がアイツの紹介ってことだけ。
いやいや、結構困るな。
じゃあ、適度に距離を保ったまま、このままただのちょっとした知り合いでいればいい。
なんだ、解決だ。

胸の中で暗い陰りが広まった。
カフェを出て、人通りがまばらなビルの角に入り、
「ああ! 」
不毛な感情、訳の分からないムカつきを声に出して、新しい空気を吸った。

今日はアルバイトがお休みで、飛行機雲が綺麗な快晴の3月10日だ。春にしてはコートはまだ手放せない季節だけれど。でも春は春だ! こんな麗らかな日に、どうしてあんな男のことで悩まなければいけない? 馬鹿馬鹿しい。
いっそ嫌いかもしれない。既に!

転がっていた石を蹴り上げると、「わあ」と小さな叫び声が聞こえた。
菱川だった。
「桜山さんだ。どうしたの、すごい顔してるよ」
菱川は赤いダウンを脱ぎ、スーツのジャケットに赤いマフラーをしていた。春だもの。
「すごい顔なんて、していません。お疲れサマです、失礼します」
私はそのまま菱川を通り過ぎようとした。
「あのさ......」
菱川が私の腕を取った。
「俺、これから打ち合わせなんだけど。新宿で良い店知らない? 一応は、目星つけたんだけど。桜山さん、チョイスが上手いからさあ」
気が抜ける。菱川の笑った顔は、人から毒素を抜くような雰囲気があった。
「......新宿ですか。だったらアルタの横にあるビルの地下に、雰囲気が満点な喫茶店があります。それか、南口の階段を降りた先に、店員の教育がきちんとされた、客層が良く静かな喫茶店もあります、値は張りますがお勧めですよ」
「ありがとう! 静かなのはいいね。行ってみるよ! あっ、そうだ。これ名刺。俺、私用の携帯電話がガラケーだから、こっちのパソコンメール中心に使ってんのね。もし良かったら、今度お礼にご馳走させてよ。よろしく! 」
急ぎ早に菱川は名刺を私に渡し、大股で手を振り人混みに吸い込まれて行く。
なんか。
木森とは大違いのスマート。爽やか。口元に咥えた楊枝に目を瞑れば、だが。
「はあ」
私は息を大きく吐いた。

その夜、狭いユニットバスに湯を張り、カナエが「誕生日近いでしょ。今年の当日は、あたし、仕事が忙しくて祝えそうにないから」と言ってプレゼントしてくれた、苺のショートケーキの形をしたバスソルトをポトムと沈めて、フローラルな香りを楽しみながら、身体を暖めた。
スマートフォンには通知が2件来ていたけれど、ひとつはカナエからで、【あんたのマカロンどこのやつ? 会社の同僚が、食べてみたいってしつこいの】というメッセージと、迷惑メールがひとつだった。

鼻をつまんで、薄いピンクのお湯の中に潜り込む。どうでもいいなら、こんなに返信を待ちわびないだろう。わかっていた。
ただ、この感情に恋と名付けたところで、それには不毛な未来しか待っていないのだ。
涙が湯に混じっていく。

シャワーでピンクのフローラルと私の涙と、ついでにわかってしまった感情の名前も、シャンプーが済んで身体中の泡を流したら、忘れることにした。
今夜はチョコレイトが食べたい。
とっても濃厚でとろけるチョコレイト、中にクランベリーのジャムが入っているような香り豊かで甘美でジューシィで贅沢なチョコレイトがいい。

少し時間が遅いけれど、外出をしよう、チョコレイトショップはまだ開いている。
タオルでショートボブを荒々しく乾かしながら、ふとスマートフォンを見ると、通知が来ていた。

木森だった。

【わあ、ごめん! 今帰った! えっと、アイコンの写真は......実は......】
そのメッセージの下に、URLが貼られた。
タップして移動すると、件のアイコン美女の写真がトップにあるブログに辿り着いた。
ブログタイトルは《ゆーな。のあま〜いお菓子日記〜全国のLadies and gentlemenにおススメレシピブログ〜》だ。
木森のメッセージは続けて、
【この人のファンなんだ! 僕は独身です><】
と、書かれた。

あー、腹が立つ。そのくせ、私の口元はチョコレイトを食べた時よりも、ニヤついていたんだから、もう仕方がない。

人を好きになったのは久しぶりだった。
中学1年の時に初恋をしてから、あの隣の席にいた川島くんよりも好きになった人はいなかったんじゃないか。そう思いつつ、木森の間の抜けた顔を思い浮かべたら、なんだか恥ずかしくなった。思いのほか、胸に湧き上がる想いは古い記憶より鮮烈で、しかも甘くて苦しかった。

チョコレイトのクランベリージャムの、甘酸っぱくほろ苦い味わいを楽しみながら、ブラックコーヒーを啜ると、恋をした私が部屋の明かりに照らされていて、滑稽にもホームセンターで買った安物の全身鏡に映し出されていた。

カナエにメッセージで店の名前を教えるついでに、好きな人ができたよ、と書いたら、カナエは、【明日ひま?】と返信をして来た。

翌日はアルバイトが午前中に入っていたが、済ませると高円寺の駅前でカナエが居た。
カナエは黒のニットワンピに灰色のチェスターコートでさらりと立って居た。同性の私から見てもそれは格好良く、編み込みの後ろ頭からのびた白くて細いうなじには色気が漂っていた。
だから仕方ないとはいえ、カナエはナンパに合っていたんだが、その、世間の狭さに驚いた。
菱川だった。
「ねえねえ、いいでしょ、ちょいっと茶ァしよ! お願い! この通り! もしかすれば君が好きだ! 」
なんていうか、チャラい。
カナエはニコリと笑って、
「間に合ってます」
と首を少し傾けて、アンドロイドを操作し始め、イヤホンを耳に着けた。
私は菱川がどうするのか見届けようか、と立ち止まってみたら、菱川が私に気づいてしまった。
「桜山さんだ。よく会うね」
カナエが、
「は? これ? 木森って」
と大声で菱川を指差し、私に向かって言った。
「え? 木森? あ? え、もしかして、この子桜山さんのお友達? どうも初めまして! 俺、菱川って言います! 桜山さんにはいつもお世話になっております」
先ほどのチャラいナンパがなかったことのように菱川は真面目そうな挨拶を始めたが、カナエは私に人差し指で手招きした。顔がこわい。

「こいつはやめとけ」
耳打ちされて、私は菱川を木森の同僚だ、と説明がてら紹介した。

「ああ、そうだったんですね。じゃあ、また機会があれば是非」
カナエが私の腕を取り、急いで歩き始めた。
振り返ると菱川が、おねだりするような顔で両手を合わせてこちらを見つめている。
ややこしいことになったな。
「カナエ、ああ見えてもあの人たぶんきっと悪い人じゃないから......お茶、3人でしない? 」
「あゆみの好きな人って木森とかいう奴? 」
小声で唐突に訊いたカナエに私は顔が火照るのを感じた。小さく頷くと、カナエは後ろを振り向き、
「菱川さん、もし良かったらランチ、ご一緒にどうですか」
とよそ行きの声を出した。

私の家でカナエとくつろぐ予定だったが、変更してすぐ近くにある喫茶店へ向かった。
「あ、こんにちわ」
フレンドリーに笑うウェイターが、異様に格好いいと評判のお店で、女性客だらけだったが、菱川は気に留めもせずに「じゃあ俺ブレンド」とメニューを開く前に注文した。
カナエが、「アイスグラッセお願いします」とメニューを畳んで言う。私は、迷いたかったであろうカナエに胸の中で一つ謝りながら、カフェモカとバナナケーキを注文した。
「ご注文繰り返します。ホットのブレンドコーヒー、アイスグラッセ、ホットのカフェモカにバナナケーキでお間違いないでしょうか? 」
ウェイターがにこやかに伝票を読み上げると、菱川が「やっぱアイスでよろしく」と足を組み、煙草を胸ポケットから取り出した。
ウェイターが頭を下げてカウンターへ向かうのを見届け、カナエが切り出した。
「木森さんってどういう方ですか? 」
何を言い出すのかと、驚いて私はカナエを見るが横顔に少し苛立ちを感じたので、何も言えない。菱川がよっぽどカナエの中で気に食わないらしい。
「木森? ただのデブメガネだけど? そんなことより俺、今日は一日暇なんだー」
「その、ただのデブメガネがどういう性格かって訊いてんだよ。くさいから煙草やめてくんない? 」
カナエが微笑んだまま、よそ行きの声のまま言うので、私は帰ろうかな、と現実逃避したくなった。