家に帰ってシャワーをして寝る支度を整える。カモミールティーを飲んで読み慣れた本で読書もした。

しかし

「全然寝れませーん…」

帰ってすぐシャワーをしたので1時間は経っているから前みたいに体温が高いわけではない。
お酒も一杯しか飲まなかったんだけどなぁ、と独りごちる。

だが、眠れない理由は分かっている。
実は明日、地域のボランティアコンサートでピアノ演奏を頼まれているのだ。規模は小さいが、伴奏やBGMではなくソロでの演奏は久しぶりだ。
前にキャンセルされてしまった事もあり、今回はお客さんに喜んで貰いたいと少しばかりプレッシャーを感じていた。

本当はバーで話を聞いてもらおうと思ったが、1人で立派に店を回している礼二に『仕事にプレッシャーを感じて』なんて弱いやつだと思われたら嫌なので言えず。
結局いつも通りズルズル関係ない話をしてしまった。

しばらくゴロゴロベットを転がっていたが、午前2時を過ぎたのを確認してスマホを取った。掛けるのはもちろん『睡眠相談室』である。
コンサートは15時からなので朝はゆっくり眠れるが、早く寝るに越したことはないだろう。

最初に利用した時から数えると何回か掛けているのですっかり慣れている。掛け過ぎかと思って富戸に聞いたことがあるが、「毎日利用されてる方もおられるので大丈夫ですよ」と返ってきたので安心した。

それと最近では、密かに眠れぬ夜を待っている自分がいることに気付いていた。

礼二に言った通り富戸に好きとかそういう感情はないが、何となく気になってしまうのだ。だからといって用もなく電話はできないので、こうして眠れぬ夜が来ると少し嬉しくなってしまう。

今回もコール音が鳴ってから割りとすぐに繋がった。

「お電話ありがとうございます。こちらは睡眠相談室でございます」

「もしもし。水民夢子と申しますが…」

「水民様でございますね。いつもご利用ありがとうございます。本日も私、富戸が担当させて頂きます」

待っていた声が聞こえてきて夢子は顔が自然と笑顔になる。

「本日はいかがなさいましたか?」

「例によって今日も眠れなくて…。前に教えて頂いたことは色々してみたんですけど…」

「それは困りましたね。原因に心あたりはございますか?」

ある。一瞬迷ったが、顔が見えない相手だと話すハードルはかなり下がる。

「実は明日、ソロでのピアノ演奏の依頼を頂いたんです。お恥ずかしい限りなんですが、そのプレッシャーでなかなか寝付けず…」

「それは致し方ないことですね。緊張感は睡眠の大敵ですので、何も恥ずかしいことなどございませんよ」

「いえ、まぁそれもそうなんですが、仮にもピアノ何年もやってて演奏のプレッシャーに負けそうと言うのがちょっと…」

言いづらくて口ごもってしまう。

「何をおっしゃいますか。それこそ何も恥ずかしいことなどございませんよ。それだけお仕事に真剣に向き合われているということです。ご依頼主もそんな水民様だからこそ頼まれたのだと思いますよ」

夢子の心に小さく光が灯るのが分かる。いつもそうだ。富戸の言葉は夢子の気持ちをほぐして温かくしてくれる。

「…そう言って頂けると…。ありがとうございます」

「いえいえ、事実を述べただけですよ」

それから、と続けて

「たとえ眠れなくても、暗い部屋でベットに体を横にして目を閉じれば、人間の体は休息する事が出来ます。なのでプレッシャーで眠れなくても焦らなくて良いんですよ」

「なんかそれ聞いて楽になりました。もう今日は横になったら合格、ってことにします」

「はい。本日は風が強いので、窓は閉めてお風邪など召されませんようお気をつけ下さいませ」

そう富戸が言った時にまた強い風が吹いた。ガタガタと音を立てる窓を見ながら、夢子はふいにハッとした表情になった。

「...水民様?どうかなさいましたか?」

「……あ、いえ。富戸さんに言われてから小窓開けてたの思い出したんです。危なかったー」

「ギリギリセーフでしたね」

お互い小声で笑い合う。通話を始めた15分足らずですっかり心は軽くなった。

「じゃあ今日は眠るのが目的ではなくなったので、これで切っちゃいますね」

「はい、承知致しました。ごゆっくりお休み下さいませ」

富戸に通話を切ってもらってから(自分から切るのは何となく名残惜しくてしたくないからだ)体を横にして、目を閉じた。
相変わらず外では風が吹いていた。


翌日、しっかり体を休めたおかげか、コンサートは無事に終了した。依頼主にも観客にも大変喜んで貰えたのはとても嬉しい。

だけど、このコンサートが夢子の今後を色んな意味で大きく変えることになるとは、この時は知らなかった。