DIRECTOR'S ROOMとシルバーの文字で書かれたプレートが俺の目の高さにある。森田秋子がドアをノックした。ボスはプレジデントっていう言葉がお嫌いなのよね、と彼女が言った。
 ドアを押すと10畳あまりの広さの部屋がある。社長室には程遠いイメージの事務的な机が窓際に置いてある。全ての社長室がそうであるように窓に背を向けてではなく、手元に光が当たるように窓を左にして置いてある。何故ならボスもまたプログラミングをするからだ。社長然とした仕事のみでなく、我々同様の実務もする。だからここはプレジデントルームではないのだと彼は言う。絵も飾っていなければ置物も無い。オーストリア製のシンプルなコートハンガー兼傘立てがデスクの脇にすっくと立っている。応接セットなど元より置ける広さではないので、これもまたオーストリア製の実用性だけを追求したソファベッドが置いてある。壁際のサイドボードにはコーヒーカップとグラスがそれぞれ6客ずつと湯沸しポットが飾り気無く置いてあるだけ。彼は秘書を持たない。若干というには憚りあるが、45歳の塚田待男、我が社の社長だ。彼は未だ現役だ。頭が非常に柔軟だ。大学時代は陸上のオリンピック選手に成り損なったそうで。
「ボス、お待たせいたしました。お呼びでしょうか」
 彼女の癖だ、右手で前髪を掻き上げる。ツカツカとボスの机に歩み寄る。俺はトボトボと彼女の後ろをついて行く。彼女の頭越しに事務椅子に腰掛けるボスが見える。
「済まないね、朝っぱらから呼び付けて。ミーティングで話しても良かったんだが、一応君たちの了解を得ておこうと思ったもんで」
 まあ掛けたまえとソファを示し、机の引き出しからバインダーを取り出した。そこから1枚の紙をはずし俺に差し出した。立ち上がり手を伸ばして受け取り読み始めると、彼女が覗き込んだ。半分読み終わらぬうちに2人は同時に、えっ、と声を揚げた。そして驚きの余りポカンと口を開けたまま顔を見合わせた。ボスが低い声で、どう思う?と言った。
「どう思うと言われましても・・・」
 ジキジキしたワープロの文字で社箋に書いてあることは、いついつからどこどこへ出張所を新設するため下記のことを決定する、と2行。その下に、記、の1文字。行を変えて、出張所メインキャップ、その右にカタカナで俺の名前。その下に平行してサブキャップ、その右に彼女の名前。森田秋子が一気に課長クラスに昇進・・・。
「あの、ボス、黒瀬さんがキャップと言うのは分かります。でも今年入社したばかりの私がサブというのは無謀ではありませんか」
 彼女の言葉を受けてボスは俺を見、ニヤリとした。そして言った。
「無謀だと思うか、黒瀬」
「時期的には無謀のように思われますが、資質から言えば決して無謀だとは・・・」
 ちらりと隣を見ると彼女が俺を軽く睨んでいた。ビジネスの枠を少し超えた表情のように思われた。こんな時に油断を見せるのが彼女の可愛いところでもある。
「君はどうだ、黒瀬。メインキャップは望まないか」
「いいえ、飛び付かせていただきます」
 そう答えると、すかさずボスはポンと机を打って、そうだろうと言った。遠藤や若杉がどんな顔をするやら。若杉の、あの身分不相応なプライドを見事に挫かれた引きつった笑い。遠藤の、余裕をたたえた落ち着いた笑顔と温かいバリトンの声の裏で、ピシピシとひび割れて行く自信。だが何故年嵩の遠藤ではなく俺なんだろう。そういう素朴な疑問はボスにとっては愚問だ。年齢だの経験だのを無意味に優遇するようなくだらないことをボスはしない。彼が社員に要求し、社員を信用する基準となっているのは、実力があるかどうかということだけだ。
「何故イヤなのか聞かせてもらおうか」
 ボスは座り直すように体を前後に動かし、両肘を机に付いた。両手をグリグリと揉みながら森田秋子を見据えている。彼は本気で彼女を説得しようと構えている。ボスは話が上手い。だから彼女はじきに納得させられるだろう。いいや彼女もしぶといし、流されないところがあるからな。五分五分だな。
 森田秋子は入社時、コンピューターに関しては白紙の状態であった。それを採用したボスの選択眼が俺は凄いと思うのだが、3ヶ月の研修期間に少なくとも俺と互角に話せるまでに成長した。セクションに配属されてからも作業の効率の良さ、ミスの極小さ、プログラムの緻密さや斬新さ等どれをとっても他に抜きん出ていた。ボスがそれをただ見ているはずが無い。また緩みがちだった中堅社員が彼女の出現によって鼓舞され、営業成績に変化があったこともボスにしてみれば大物を手に入れた気分だろう。出張所新設の話が突然であったことは確かに驚きであるし、俺より年功から言えば上の遠藤たちを差し置いての人事もショッキングなことだ。だが、それより何よりたまたまこの会社に入社したことによって社史始まって以来のスピード出世をすることになるやもしれぬ女性が、こんなに身近にいるというのはドラマチックでセンセイショナルだ。彼女なら男の上に立ってもおかしくない。無能さに着飾った女たちのやっかみは避けられないだろうが、彼女ならスマートにかわしてバリバリのキャリアウーマンでいられるだろう。だが彼女の口から出た言葉はボスも俺も全く予想しなかったことだ。
「人の上に立って指示できるような器ではありませんし、上に立ちたいとも思いません。これだから女は困るとおっしゃられるかもしれませんが、私が働くのは自分の生活に経済的なゆとりを持たせるためであって、会社のためではありません。たまたま仕事の内容が自分に合っていて好きになれたから楽しく勤められているだけです。サブになって私自身の生活そのものが犠牲になり、会社にどっぷり浸かってしまうのは私の望むことではありません。私は仕事と自分を切り離して考えています。会社にいる私は私生活の私を養うために働いています。どうかこんな自分勝手な私を任命なさらずに、会社のためになる方にこの機会をお与え下さい。私に責務は無理です」
 澱みなくそう語ると、彼女は静かに呼吸しボスをみつめた。とても堂々としていて艶っぽくて落ち着いていて、こんな女が上司だったら男どもは張り切るだろうなと思うのだが、うーむ残念だ。ボスは穏やかに彼女を見ている。
「確かにね・・・」
 ボスは、ギィッと事務椅子の背にもたれ天井を仰いだ。
「会社の御為にがむしゃらに、或いは要領よく働いている奴はいるよ。そういう奴らには順当な地位を私は与えている。彼らには彼らの能力に合ったポストを与えている。だがね、はっきり言ってしまえばがむしゃらに働くというのは能の無い人間のすることだ。だからと言っていい加減な人間は信用できない。仕事なんてフットレストに過ぎないぐらいが丁度良い。君の言う通りだ。仕事のキャパシティがギリギリの奴ほど公私混同してしまう。切り離し結構、私生活重視、それも然り」
 ボスの説得口調には頷かざるを得ない空気がある。うむ、と大きく頷きそうになって慌てて隣りを見た。彼女はほんの少し首を傾げボスを見ている。ボスは再び口を開いた。
「君が女であるのは非常に残念なことだが、一方では比類無いラッキーなことなんだよ。人材としての君が必要なんだ」
「何故ですか。半年しか働いていないのに、何故私が必要な人材だと評価されたのでしょうか。私は大学の成績もそれほど良くありませんし、寧ろ悪い方ですし、入社試験だって好成績だったとは思えません」
「そんなに反発するのはよせ。クビと言われたわけじゃないんだぜ。喜ぶべきことだろう」
「まぁ待て、黒瀬」
 宥め口調でそう言うとボスは立ち上がり、俺たちの座っているソファまでガラガラと椅子を引きずって来ると、背もたれを前にして跨るように座った。それがイヤミでなくスマートに見えるのは彼が知的なスポーツマンだからだ。
「新支社のキックオフは来年の夏だ。それまでに君に何の進歩も見られなければ、俺はさっさと君を見限って、他の人間に乗り換えるよ。今年度末までには準備のためにこちらを引き上げてもらうことになる」
「見究め期間は年内ですね」
「そういうことだ」
 彼女は無表情にボスをみつめたまま無言でいる。
「君のことだから、わざと仕事をしないで評価を下げるなどということはないと信じているよ。黒瀬だって君を望んでいるさ」
 人の痛いところをチクリと刺して、ボスは、これで話は終わりだと秋子と俺の肩を叩いた。
 Dルームに居たのはほんの30分程だが、俺はとても長い時間あそこに居たような気がしていた。それは彼女も同じだと思う。
「イヤだわ。迷惑だわ。地位も肩書も私には不要なのに。身動きが取れないような気がしてしまう。私は今のままで十分」
 廊下を歩きながら彼女はつまらなそうに話した。自分らしい生き方をしたいのだと彼女は俺に訴える。
「今度の事、すっごく君らしいと思うよ」
「え?」
「君に相応しいポストだと思う。それに、ずっと今のままでいたら君は義理の兄さんと結婚させられちまうよ」
 踊り場で立ち止まり、呆れたような表情で彼女は俺を見た。あと13段階段を下ると仕事場の扉だ。彼女を追い越して1段下に向かって足をぶらぶらしながら俺は言った。
「ずっと今のままだと後3年もすれば君が結婚しなければならない状況に周囲が持って行き易くなる。高いポストに就いていれば、仕事優先のキャリアウーマンでございって突っぱねることが出来るだろ?」
「欺瞞だわ」
 ポツリとそう言うと、彼女は俺を無視するかのように傍らを通り過ぎ、鉄の重い扉に体重をかけ、えいっとばかりに押し開いた。そして俺のために開けたままになどしてもくれず、さっさと中へ消えた。一瞬ドットプリンターのジキジキいう音やディスプレイの発するビープ音が聞こえ、そして消えた。