「あれ? 女の子連れて来るなんて天変地異だな。冗談抜きでさ。おい、説明しろ」
 彼女は俺を見上げニヤリとした。
「今日からこの子と同居することにしたから」
 さして説明するでもなく、結論から先に言った。マスターならわかってくれるはずだ。案の定すんなり受け入れた表情だ。彼女を気に入った様子で、もう彼の得意なきつい冗談の餌食になっている。
「クロちゃんは大学時代から女泣かせでね。君で何人目だと思う? 両手両足の指でも足りないくらいさ」
 森田秋子は笑っている。
「おい、今までの女の子と違うぞ」
 とマスターは俺に耳打ちした。流石マスター、分かってらっしゃる。
「何が良い?」
 和紙に手書きのメニューを彼女に渡した。だが彼女はそれを見ずに傍らに立つマスターを見上げて言った。
「マスター、お勧めは何でしょうか。ボリュームたっぷりですこぶる美味しいの」
「お言葉ですがお嬢様、当店のメニューは全てボリュームたっぷりですこぶるつきの美味でございます」
 冗談ぽくかしこまってマスターが言う。高級レストランのウェイターが片手にナプキンを掛けているのを真似てエプロンの下に手を通しながら。
「イコール全てボリュームほどほどの味そこそこだろ?」
「いやあ、きついこと言うねえ、シェフが泣くよ、クロちゃん」
 そう言うと両腕を左右に広げてワッハッハッハと笑い、俺の肩をバシッとぶった。
「外国人みたいな人ね」
 彼女は後でマスターのことをそう評した。
「俺はいつもシュリンプサンドとオレンジジュースを頼んでるよ。それにする?」
「うん、それにする」
「マスター、シュリンプサンドとオレンジジュース、速攻で持って来て。2人とも空腹と疲れでフラフラなんだ」
「OK。高木君、聞こえたかい?」
 キッチンに居るシェフにマスターが声をかけると、はいよと応える野太い声がした。マスターの奥さんの弟だ。速攻という程でもないが、まあまあ早目に来たサンドイッチを頬張り、2人は暫く無言で居た。
「俺たちさ」
 2切れ目に手を伸ばした時俺は口を開いた。彼女はオレンジジュースのグラスを持ち上げたところだった。
「俺たち、不思議と家族の事話さないね」
 彼女はグラスを持ったまま首を傾げて笑った。
「どうして突然そんなこと」
「だってさ、引っ越すとなったら連絡するもんだろ」
「するわよ、落ち着いたら」
「そうか」
「黒瀬さんこそ私を部屋に連れ込んで平気なのかしら?」
 そう言って彼女は軽く俺を睨んだ。
「俺は平気さ。末っ子だし家は一番上の兄貴が継いで安泰だし、俺は俺で1人で稼いでるし、ここ2、3年電話も手紙も無いよ」
「結婚の話とかは?」
「末っ子だからね、関心無いみたいだ」
「そうなんだ」
「女ってさ、もっと家と接してるもんじゃないか? 何かある度に電話したり、手紙書いたりしてさ。夏休みは実家に帰ったりすんじゃないの? なのに君は家族の匂いが全くしない。どうしてだろう」
「うーん」
 と言って彼女は口に手を当てた。悪い事を訊いたかなと思ったが、ここで話を逸らすと後々まで家族の事を口にするのがタブーになりそうなので、ためらわずに追及することにした。
「たまたま音沙汰無いだけだけど・・・どっちかって言うと複雑かなー」
「どんな風に?」
「私は気にしないのだけど、これを話すとみんな変に気を遣って家族のことに触れなくなるの」
 そう前置きして話し慣れたことを話すように躊躇無く話し始めた。
「早い話が今の両親は私の本当の父と母ではないの。本当の両親が離婚して、父が再婚した。その父が事故で死んで継母が再婚した」
 箇条書きの文章を読み上げるようだ。
「兄弟は?」
 俺は部下の履歴を深く探らない。偏見を持ちたくないからだ。共通点を探すとしたら出身地と最終学歴くらいだが、それはいずれ分かることだ。
「兄が2人居るけど2人とも本当の兄ではないわ。30の方は継父の連れ子、25の方は継母の連れ子」
「君んちは他人だらけだ」
「そういうこと。本当の妹も居るのよ」
「どこに?」
「本当の母と一緒に横浜の母の実家に居るわ」
「森田ってのは本当の姓?」
「うん。森田の姓の中で人が出たり入ったりしてるの。面白いでしょう」
「ご実家は?」
「本当の父が内科医で、その病院をそのまま継ぐ形で継父が婿養子に入ったの。だから大変なの」
「何が?」
「財産争い」
「え?」
「上の兄は自立して家を出たから問題は無いの」
「下のお兄さんに何か問題あり?」
「そうなの。彼は私と結婚したがってるの」
「まさか。出来るんだっけ?」
「戸籍上は兄妹でも血は繋がってないから、可能にする方法があるんですって」
「今何やってんの?」
「医者よ」
「じゃ、病院を継いでるんだ」
「そのうちね。今は大学病院に居る。結構ハンサムだし性格良いんだけど、マザコンなんだな、これが。生理的に苦手なタイプ」
「君の同棲のことは知ってるのかな」
「どうでしょう…」
「俺と君の兄貴、どっちが勝つかな」
「比較にならないわよ」
「どうしてさ」
 彼女は可笑しそうに笑った。俺も笑った。
「みんなこの話をすると、辛い事話させてごめんねって言うのよ」
「だって君自身が気にしないって言うから」
 2人が笑っているところにオレンジジュースの入ったピッチャーを持ってマスターがやって来た。ここは飲み物がお代わり自由だ。但しサンドイッチを頼んだ場合。
「おニ人さん、熱心に何を話してるんだね」
 サンドイッチは無くなった。俺は物足りなくて今度はハムサンドを頼もうかと思っていた。すると彼女が、もっと食べたいと言った。マスターは、痩せの大食いだと言って笑った。ハムサンドを一人前オーダーして足りなかったらまた追加することにした。彼女のグラスにオレンジジュースを満たしてから、オーダーを告げに行ったマスターは、戻って来ると今度は俺のグラスにオレンジジュースを満たした。
「共同生活のルールは決まったかな?」
とマスターは言い彼女を見た。彼女は何も言わず柔らかな笑みを返していた。マスターは彼女から何か答えがあるのを期待して尋ねたのではない。そうやってコミュニケーションを図ろうとしているのだ。それが証拠にマスターはすぐに言葉を続けた。
「なかなか難しいだろ。割り切れることの方が少ないからね。ま、喧嘩しつつ建設的にやっていくことだ」
 マスターはこの手の話を決して茶化さない。平和で堅実な生活の基に積み重ねられた経験から出る彼の言葉は人の気持ちを惹きつける。