麻衣子の感触がいつまでも背中に残っている。和也はなかなか眠れなかった。
大井町の麻衣子のマンションの前で彼女を降ろし、ヘルメットを脱ぐと、和也はバイクに跨ったまま彼女を引き寄せ、再び念入りにキスをした。
「また会いたい」
心を込めて和也がそう言うと、彼女は微笑みながら小刻みに頷いた。セックスだけを目的に麻衣子と会うには、和也にとって麻衣子はイイ女過ぎるのだが、何故か優介の顔がちらついて、それ以上のものにしてはならないという気にさせる。優介より早く麻衣子に出会わなかった運命を、和也は柄にもなく呪うのであった。
部屋のドアを開けるとほのかに麻衣子のつけていたムスクの香りが残っていた。ベッドに潜るとより一層その香りが強く、目を閉じると香りと共に彼女の裸体が頭に浮かんだ。今夜は眠れそうにない。和也は麻衣子のオフィスの電話番号しか知らない。が、今度は堂々と優介のデスクから電話をし、彼女の部屋の電話番号を訊こうと心に決めた。優介から麻衣子を奪う気はないが、麻衣子が自分をフリーだと言うなら何をしようと勝手だ、と、和也は嫉妬のせいか少し強気になっていた。
マンションの前で和也の後姿をほんの2、3秒佇んで見送り振り返ると、間近に人が立っていた。真夜中に1人残された時、突然人の気配に触れるのは大の男だとてあまり良い気持ちはすまい。麻衣子は心臓が破裂するほど驚いた。一瞬走り出そうとしたが、街灯に照らし出されたのが見知った顔だったので立ち止まった。
「遅かったなぁ、あれがお前の新しい男かぁ。部屋に入れないなんて珍しいじゃん」
「何か用なの?」
誠を部屋に入れるのは金輪際イヤなので、立ち話を決め込んだ。冬ならそうも行かないが、この季節、夜風にあたるのも悪くない。誠は不服そうにTシャツの袖を肩まで捲り上げながら言った。
「ちょっと相談」
「何かしら」
「俺、ヘマやっちゃてさ」
「どんな?」
「これさ」
右手を胸の下から下腹部へ弧を描くように動かした。
「それで?」
「どうすれば良いかと思ってさぁ」
「どうするも何も産むか堕ろすかでしょうに」
「産ませるわけには行かないんだ」
「答えが決まってるなら相談になんか来ないでよ」
自動ドアを入って行く麻衣子を追いかけ誠も中に入って来た。管理人室には灯りが付いていて、ガードマンが1人こちらを向いていた。麻衣子だと知ると軽く頷いた。
「まだ何か用なの?」
「頼むよぉ、助けてくれよぉ」
「私にどうしろって言うの?」
「だって俺の子じゃないかもしれないんだぜ」
また誠得意の「だって」が出た。麻衣子の時もそうだった。妊娠こそしなかったが、生理が遅れていると言うと、危険日だからと抵抗する麻衣子を押さえ付けて無理矢理思いを遂げた自分勝手をすっかり忘れて、だってだってを連発した。麻衣子が受け入れるからいけないんだと逃げた。獣のような男の力からどうすれば逃げられたというのだ。そういうことが何度あったかしれない。
「そういうことは男として言うべきじゃないわね。例えあなたが大勢の中の1人であったにしろ、やってしまったのは事実なんだから」
「だってそいつ同じクラスに男がいるんだぜ、他にもさぁ」
「同じクラスって・・・」
「俺の・・・担任の・・・」
息を呑んで驚く麻衣子を見て、初めて事の重大さに気付いたかのように誠はしどろもどろになった。麻衣子は全てを察知した。
「問題外の外も良いとこだわ。自分が何をしたか分かってるの? 立派な犯罪なのよ」
「犯罪」という言葉の強さに、発音してみて麻衣子自身たじろいでしまった。誠はもっとショックを受けたらしくソワソワし出した。
「警察に捕まるかなぁ」
呆れて物も言えない。そんな子どもじみた発想しかしないなんて。麻衣子は天を仰ぎ匙を投げた。
「兎に角公明正大に自分の身の潔白を証明するなり、シラを切り通すなり、いずれにしろ逃げないことよ。もう後には引けないんだから。分かった?」
出来の悪い弟を諭すように麻衣子は語気を強めた。エレベーターの上りのボタンを押すとドアはすぐに開いた。麻衣子が乗り込むと、すがるような目で誠は追いかけて来たが、キッと睨む麻衣子の視線に弾かれたように1歩後退った。
手首のダイバーウォッチを見た。零時になろうとしている。まだ月曜日だというのにまるで1週間を過ごしたかのように麻衣子は疲れを感じた。ドッとベッドに倒れ込んだ。床にポーチが落ちた。拾おうとして体を起こすと電話が鳴った。
「はい」
「麻衣子」
優介だ。
「どうしたの、こんなに遅く」
「ちょっと気になったもんだから」
「何?」
「木村のこと」
「それならもう済んだわ」
「済んだって?」
「さっきまで彼の部屋にいたの」
「やっぱり麻衣子のムスクだったのか」
「そういうこと」
「どうだった?」
「どうってことないわ」
「良かったか」
「まあね」
また会うのか、と言いかけて優介はその言葉を呑み込んだ。麻衣子に対してそういうことを言うのはルール違反だ。何をどういう風になどと2人の間で取り決めたことなど無いが、5年以上の付き合いの中で自然とできていた2人のルールがあった。
「優介?」
「え?」
ほんの2、3秒の沈黙の間に麻衣子は優介が言おうとしてやめた意図を慮った。
「どうしたのよ」
「何が?」
「そんなこと気にする人じゃないでしょうに」
「もう気にしてないよ」
「そう」
「麻衣子が済んだって言うならそれで良いんだ」
「ありがとう」
優介よりも和也の方が良いとは麻衣子は言わなかった。それは優介が一番恐れていることだ。彼女にとって自分が最高でありたいと思っていた優介だが、和也には負けそうな気がしていた。事実負けたには負けたのだが、「あなたの負けよ」と麻衣子の口から聞かなかったことと、彼女が和也に執着しそうにないことが救いであった。
「ねぇ、大事件よ」
「どうした」
「誠がね」
「うん」
「高校生を妊娠させたらしいの」
「何だって?」
「高校生とヤッてしまったのよ。ヤッたのは事実なんだけど相手も男が複数いるらしくて、誠の子どもであるかどうかわからないみたいなの」
「流行りの淫行ってやつか。あいついつか何かとんでもないことをやらかすと思っていたが、しかしどっちもどっちだな。」
「呆れたでしょ」
「呆れた。でもザマーミロだ」
「助けを求めに私のところに来たのよ」
「いつ」
「ついさっき。マンションの前で私の帰りを待ち構えてたの。木村さんのこと、新しい男かだって」
「へぇ。良く言うよ」
「全くね」
「それでどうした」
「どうもしない。どうすれば良いかって聞かれても、産むか堕ろすか本人の問題だし私が決めることじゃないもの」
「あいつにはもう関わらない方が良いな」
「勿論そのつもりだけど、他力本願なあの人のことだから、どこからどう引き摺り込まれるかわからないわ」
「用心することだね」
「そうね」
大井町の麻衣子のマンションの前で彼女を降ろし、ヘルメットを脱ぐと、和也はバイクに跨ったまま彼女を引き寄せ、再び念入りにキスをした。
「また会いたい」
心を込めて和也がそう言うと、彼女は微笑みながら小刻みに頷いた。セックスだけを目的に麻衣子と会うには、和也にとって麻衣子はイイ女過ぎるのだが、何故か優介の顔がちらついて、それ以上のものにしてはならないという気にさせる。優介より早く麻衣子に出会わなかった運命を、和也は柄にもなく呪うのであった。
部屋のドアを開けるとほのかに麻衣子のつけていたムスクの香りが残っていた。ベッドに潜るとより一層その香りが強く、目を閉じると香りと共に彼女の裸体が頭に浮かんだ。今夜は眠れそうにない。和也は麻衣子のオフィスの電話番号しか知らない。が、今度は堂々と優介のデスクから電話をし、彼女の部屋の電話番号を訊こうと心に決めた。優介から麻衣子を奪う気はないが、麻衣子が自分をフリーだと言うなら何をしようと勝手だ、と、和也は嫉妬のせいか少し強気になっていた。
マンションの前で和也の後姿をほんの2、3秒佇んで見送り振り返ると、間近に人が立っていた。真夜中に1人残された時、突然人の気配に触れるのは大の男だとてあまり良い気持ちはすまい。麻衣子は心臓が破裂するほど驚いた。一瞬走り出そうとしたが、街灯に照らし出されたのが見知った顔だったので立ち止まった。
「遅かったなぁ、あれがお前の新しい男かぁ。部屋に入れないなんて珍しいじゃん」
「何か用なの?」
誠を部屋に入れるのは金輪際イヤなので、立ち話を決め込んだ。冬ならそうも行かないが、この季節、夜風にあたるのも悪くない。誠は不服そうにTシャツの袖を肩まで捲り上げながら言った。
「ちょっと相談」
「何かしら」
「俺、ヘマやっちゃてさ」
「どんな?」
「これさ」
右手を胸の下から下腹部へ弧を描くように動かした。
「それで?」
「どうすれば良いかと思ってさぁ」
「どうするも何も産むか堕ろすかでしょうに」
「産ませるわけには行かないんだ」
「答えが決まってるなら相談になんか来ないでよ」
自動ドアを入って行く麻衣子を追いかけ誠も中に入って来た。管理人室には灯りが付いていて、ガードマンが1人こちらを向いていた。麻衣子だと知ると軽く頷いた。
「まだ何か用なの?」
「頼むよぉ、助けてくれよぉ」
「私にどうしろって言うの?」
「だって俺の子じゃないかもしれないんだぜ」
また誠得意の「だって」が出た。麻衣子の時もそうだった。妊娠こそしなかったが、生理が遅れていると言うと、危険日だからと抵抗する麻衣子を押さえ付けて無理矢理思いを遂げた自分勝手をすっかり忘れて、だってだってを連発した。麻衣子が受け入れるからいけないんだと逃げた。獣のような男の力からどうすれば逃げられたというのだ。そういうことが何度あったかしれない。
「そういうことは男として言うべきじゃないわね。例えあなたが大勢の中の1人であったにしろ、やってしまったのは事実なんだから」
「だってそいつ同じクラスに男がいるんだぜ、他にもさぁ」
「同じクラスって・・・」
「俺の・・・担任の・・・」
息を呑んで驚く麻衣子を見て、初めて事の重大さに気付いたかのように誠はしどろもどろになった。麻衣子は全てを察知した。
「問題外の外も良いとこだわ。自分が何をしたか分かってるの? 立派な犯罪なのよ」
「犯罪」という言葉の強さに、発音してみて麻衣子自身たじろいでしまった。誠はもっとショックを受けたらしくソワソワし出した。
「警察に捕まるかなぁ」
呆れて物も言えない。そんな子どもじみた発想しかしないなんて。麻衣子は天を仰ぎ匙を投げた。
「兎に角公明正大に自分の身の潔白を証明するなり、シラを切り通すなり、いずれにしろ逃げないことよ。もう後には引けないんだから。分かった?」
出来の悪い弟を諭すように麻衣子は語気を強めた。エレベーターの上りのボタンを押すとドアはすぐに開いた。麻衣子が乗り込むと、すがるような目で誠は追いかけて来たが、キッと睨む麻衣子の視線に弾かれたように1歩後退った。
手首のダイバーウォッチを見た。零時になろうとしている。まだ月曜日だというのにまるで1週間を過ごしたかのように麻衣子は疲れを感じた。ドッとベッドに倒れ込んだ。床にポーチが落ちた。拾おうとして体を起こすと電話が鳴った。
「はい」
「麻衣子」
優介だ。
「どうしたの、こんなに遅く」
「ちょっと気になったもんだから」
「何?」
「木村のこと」
「それならもう済んだわ」
「済んだって?」
「さっきまで彼の部屋にいたの」
「やっぱり麻衣子のムスクだったのか」
「そういうこと」
「どうだった?」
「どうってことないわ」
「良かったか」
「まあね」
また会うのか、と言いかけて優介はその言葉を呑み込んだ。麻衣子に対してそういうことを言うのはルール違反だ。何をどういう風になどと2人の間で取り決めたことなど無いが、5年以上の付き合いの中で自然とできていた2人のルールがあった。
「優介?」
「え?」
ほんの2、3秒の沈黙の間に麻衣子は優介が言おうとしてやめた意図を慮った。
「どうしたのよ」
「何が?」
「そんなこと気にする人じゃないでしょうに」
「もう気にしてないよ」
「そう」
「麻衣子が済んだって言うならそれで良いんだ」
「ありがとう」
優介よりも和也の方が良いとは麻衣子は言わなかった。それは優介が一番恐れていることだ。彼女にとって自分が最高でありたいと思っていた優介だが、和也には負けそうな気がしていた。事実負けたには負けたのだが、「あなたの負けよ」と麻衣子の口から聞かなかったことと、彼女が和也に執着しそうにないことが救いであった。
「ねぇ、大事件よ」
「どうした」
「誠がね」
「うん」
「高校生を妊娠させたらしいの」
「何だって?」
「高校生とヤッてしまったのよ。ヤッたのは事実なんだけど相手も男が複数いるらしくて、誠の子どもであるかどうかわからないみたいなの」
「流行りの淫行ってやつか。あいついつか何かとんでもないことをやらかすと思っていたが、しかしどっちもどっちだな。」
「呆れたでしょ」
「呆れた。でもザマーミロだ」
「助けを求めに私のところに来たのよ」
「いつ」
「ついさっき。マンションの前で私の帰りを待ち構えてたの。木村さんのこと、新しい男かだって」
「へぇ。良く言うよ」
「全くね」
「それでどうした」
「どうもしない。どうすれば良いかって聞かれても、産むか堕ろすか本人の問題だし私が決めることじゃないもの」
「あいつにはもう関わらない方が良いな」
「勿論そのつもりだけど、他力本願なあの人のことだから、どこからどう引き摺り込まれるかわからないわ」
「用心することだね」
「そうね」



