麻衣子は木村和也にひどく興味があった。土曜日の朝のあの5分ほどの出逢いで動物的な狩猟本能が呼び覚まされたようである。これほどまでに気にかかる男の出現は何年振りのことだろう。優介が今まで麻衣子に和也を引き会わせなかった理由が彼女には分かる。優介は決して麻衣子を束縛しないが、常に彼女の事を最優先している。麻衣子ももしかしたらそうなのかもしれない。その2人の暗黙の関係を危険な状態に陥らせる者を優介は無意識のうちに排除して来たのだ。
日曜日の夜、大井町の麻衣子のマンションの前で彼女を降ろすと、部屋に寄りもせずに帰ってしまった優介の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていたのは優介のためにではない。和也のバイクのためにだ。和也ともう一度会うためには優介を介してバイクを借りることをしなくてはいけないのかと佇みながら消極的に考えそうになる自分に気が付いて、彼女は思わず吹き出してしまった。生な振りをする必要がどこにあろう。和也だとてあの時麻衣子から目を逸らさず口元の微かな動きで何かを訴えようとしていた。あの目は絶対に麻衣子を求めている。麻衣子は確信した。彼女は和也に「手を出す」ことに決めた。
優介がバイクを返しに行くと、和也は開口一番に麻衣子のことを尋ねた。
「どこに住んでるんだ」
「大井町」
「へえ、目と鼻の先じゃないか。おい、佐久間、やっぱり隠していやがったな」
「ハハハ、たまにはそういうこともあるさ。俺だって血も涙もある人間だからな」
「つまり彼女は大切な女だってことか」
「それほどのものでもない」
「俺は手を出すぞ」
「勝手にしろ。会わせちまったんだからしょうがない」
「素直だな」
「おい、仕返しのつもりか」
「まさか。単純にイイ女を抱きたいだけだ」
麻衣子は和也の手に堕ちると優介は思った。麻衣子もそれを望んでいる。悔しいがしかたない。だが、麻衣子は深入りしないという確信はある。それが救いだ。しかし和也は・・・彼が一度麻衣子を知れば・・・いいや、麻衣子が俺から離れて行かなければそれで良い。優介はわだかまる気持ちのまま自分の部屋へ戻った。
次の日和也は早くも行動を開始した。朝、通勤通学の人でごった返す大井町の駅前で麻衣子を捕まえようと待ち構えていた。和也は麻衣子が車で通勤していることを知らない。たまたま金曜日に会社に車を置いて帰宅したから良かったものの。麻衣子はいつも通り8時丁度に部屋を出、駅までの5分ほどの道のりをゆっくり歩いていた。和也はJR線の駅前の目立つ所にバイクを停めて立っていた。ここならバスを降りてもどちらから歩いて来ても分かるはずだ。朝のこの慌ただしい時間帯に改札へ流れても行かず、バイクの脇に立っている男に誰もが胡散臭そうに一瞥をくれて過ぎて行く。
果たして麻衣子は目敏く和也をみつけてしまった。背の高いネクタイ姿のサラリーマンが赤と黒のヘルメットを持ち、大きなバイクにもたれて立っている。と思った瞬間に胸がときめき、麻衣子の顔は通勤のごくありふれた表情から一変して男に会う顔になる。和也が出逢いを計算してそこにいるのだと麻衣子には分かる。だからわざと偶然を装って驚いて見せる必要など無い。和也と麻衣子の間にはそのような持って回ったやり方は無駄なだけだ。少し顎を突き出した格好で和也に人差し指を向けたまま歩いた。近付くと彼は彼女の人差し指を自分の掌に納めた。極普通の恋人同士の出逢いの場面である。
「お早う」
「お早う」
「会社に電話するよ。ナンバーを教えてくれ」
「良いわ。ちょっと待って」
初対面はたったの5分。そして今もタイトスカートを履いている麻衣子を後ろに乗せては行けないと知った和也は、彼女が書いたメモを受け取り、さっさと走り去ってしまった。体を求め合うためのアプローチを長くするのが嫌いなのは、彼も彼女も同じであった。
「もしもし」
「あら」
「昨日は悪かった、さっさと帰ってしまって」
「いいえ」
和也からの電話を期待したが優介の声で少しがっかりした。だがいつもの調子で応えたので彼は気付かない。
「今日、帰りは車?」
「そう、だと思う」
「てことは?」
「また置いて行くかもしれない」
瞬間、このスカートではバイクに乗れないことを思ったが、車で帰ろうが帰るまいが要は和也とどこかで会えば良いわけだから、それは彼から電話があった時に決めれば良いことだ。優介にどう言おうと誰の知ったことでもない。
「もう予定が入ったんだ」
「そうなのよ」
「それは残念だ」
ふと窓外に目をやると、案の定4車線道路の向こう側に立つビルの窓に受話器を手にしてこちらを向いた優介がいた。表情までは見えない。和也がいはしないか背後に目を向けたが、皆腰掛けていて、麻衣子のところからは頭しか見えない。
「じゃ、また電話する」
優介はあっさりと電話を切った。やはり誠とは違う。誰とどこで何をするかなどと意味も無く追及して来ない。優介は自分にとって最良のパートナーだと麻衣子は思った。
いつも通り麻衣子は地下の社員食堂で昼食を摂り、同僚と共に再びオフィスへ戻った。ある者は読書しある者は30分ほどの眠りを貪り、またある者は取りとめのない雑談を愉しむ。麻衣子は読みかけの文庫本に目を落としながら電話の方をも気にしていた。本のストーリーがクライマックスに差し掛かり、少し集中して読みたいところなので、電話がかかってくることを考えながら読むことがとても煩わしく、彼女は結局本を閉じてしまった。代わりに手帳を取り出し、今まで書き込み忘れていた過去の動向やこれからの予定などをかいつまんで埋めて行った。
最近の麻衣子は残業が多い。他の女子社員はこの課だけを見ると月平均20時間程度だが、彼女はその3倍以上、男子社員と並ぶくらい残業をしている。これでよく疲れることなく男たちと付き合っていられるものだと自分でも呆れるくらいだ。だがこの仕事が麻衣子を必要としているし、他の社員にしてみても麻衣子の存在がとても重要なのだ。テキパキと仕事をこなし、頭の回転も速く話題が豊富でしかも適度にイイ女で・・・彼女は車で通勤しているので終電を気にしない。デートがあるからと言って仕事をないがしろにしない。メリハリのある態度は彼女の魅力でもあり脅威でもある。さて、と手帳を閉じると電話が鳴った。受話器を耳にすると聞き慣れない男の声がした。しかし和也だとすぐに分かった。電話だと彼の声はひどく少年ぽく響く。良い声だなと麻衣子は思った。
「村上さん?」
「そうです」
「電話だと違って聞こえる」
「私もそう思ったところよ」
「良い声だね」
「あらありがとう」
向かいのビルの窓に目をやった。優介なら麻衣子から見える所に立っているのだが、和也はそうではないのだろう。2、3人立ち動いている中に彼らしき人はいなかった。
「午前中に佐久間が君に電話してたろう」
「よく知ってるわね」
「話し声が聞こえた」
「席が近いのかしら」
「背中合わせなんだ」
「そう」
再び目を外に移したが今度は誰も見えない。
「どこからかけてるの?」
「下の喫茶店」
「あなたは私用電話をしないのね」
「いいや、俺のデスクには電話が無いんだ。佐久間のところからかけなきゃならない。何だかそれは憚られてね」
「なるほど」
「今夜どうしようか」
「私、帰りは車なの」
「送ってもらうんだ」
「ううん、私、いつもは車で通勤してるのよ」
「へえ。でも今朝はどうして?」
「金曜日は電車で帰宅したから」
「俺は何てラッキーなんだ」
「ほんとね」
「それじゃ、一旦家に車を置いて大森まで電車で来れば良い。駅まで迎えに行くよ」
「つまりあなたの部屋に行くってことね」
「そういうこと」
「わかったわ」
何の躊躇いも無く麻衣子は和也の部屋を訪ねることを承諾した。お互いに仕事の具合によっては残業するかもしれないので計画は流動的なものにし、麻衣子が和也の部屋に電話を入れることにした。
その夕、麻衣子は2時間残業し、同僚と夕食を摂ったので、大井町のマンションに着いたのは9時を過ぎていた。和也の部屋に電話をすると、待ちかねた声をした和也が出た。
「今から出ます」
「着替えた?」
「うん」
「何を着てる?」
「土曜日と同じ」
「かっこいいね」
「そう?」
「ピンクのベアトップだろ」
「そう」
「すごく強烈に印象に残ってるんだ」
「そう」
「君を思い出そうとするとその格好が浮かぶ」
赤いデイパックを肩に掛け、優介が放ったヘルメットを受け取る麻衣子を思いながら和也は話していた。
日曜日の夜、大井町の麻衣子のマンションの前で彼女を降ろすと、部屋に寄りもせずに帰ってしまった優介の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていたのは優介のためにではない。和也のバイクのためにだ。和也ともう一度会うためには優介を介してバイクを借りることをしなくてはいけないのかと佇みながら消極的に考えそうになる自分に気が付いて、彼女は思わず吹き出してしまった。生な振りをする必要がどこにあろう。和也だとてあの時麻衣子から目を逸らさず口元の微かな動きで何かを訴えようとしていた。あの目は絶対に麻衣子を求めている。麻衣子は確信した。彼女は和也に「手を出す」ことに決めた。
優介がバイクを返しに行くと、和也は開口一番に麻衣子のことを尋ねた。
「どこに住んでるんだ」
「大井町」
「へえ、目と鼻の先じゃないか。おい、佐久間、やっぱり隠していやがったな」
「ハハハ、たまにはそういうこともあるさ。俺だって血も涙もある人間だからな」
「つまり彼女は大切な女だってことか」
「それほどのものでもない」
「俺は手を出すぞ」
「勝手にしろ。会わせちまったんだからしょうがない」
「素直だな」
「おい、仕返しのつもりか」
「まさか。単純にイイ女を抱きたいだけだ」
麻衣子は和也の手に堕ちると優介は思った。麻衣子もそれを望んでいる。悔しいがしかたない。だが、麻衣子は深入りしないという確信はある。それが救いだ。しかし和也は・・・彼が一度麻衣子を知れば・・・いいや、麻衣子が俺から離れて行かなければそれで良い。優介はわだかまる気持ちのまま自分の部屋へ戻った。
次の日和也は早くも行動を開始した。朝、通勤通学の人でごった返す大井町の駅前で麻衣子を捕まえようと待ち構えていた。和也は麻衣子が車で通勤していることを知らない。たまたま金曜日に会社に車を置いて帰宅したから良かったものの。麻衣子はいつも通り8時丁度に部屋を出、駅までの5分ほどの道のりをゆっくり歩いていた。和也はJR線の駅前の目立つ所にバイクを停めて立っていた。ここならバスを降りてもどちらから歩いて来ても分かるはずだ。朝のこの慌ただしい時間帯に改札へ流れても行かず、バイクの脇に立っている男に誰もが胡散臭そうに一瞥をくれて過ぎて行く。
果たして麻衣子は目敏く和也をみつけてしまった。背の高いネクタイ姿のサラリーマンが赤と黒のヘルメットを持ち、大きなバイクにもたれて立っている。と思った瞬間に胸がときめき、麻衣子の顔は通勤のごくありふれた表情から一変して男に会う顔になる。和也が出逢いを計算してそこにいるのだと麻衣子には分かる。だからわざと偶然を装って驚いて見せる必要など無い。和也と麻衣子の間にはそのような持って回ったやり方は無駄なだけだ。少し顎を突き出した格好で和也に人差し指を向けたまま歩いた。近付くと彼は彼女の人差し指を自分の掌に納めた。極普通の恋人同士の出逢いの場面である。
「お早う」
「お早う」
「会社に電話するよ。ナンバーを教えてくれ」
「良いわ。ちょっと待って」
初対面はたったの5分。そして今もタイトスカートを履いている麻衣子を後ろに乗せては行けないと知った和也は、彼女が書いたメモを受け取り、さっさと走り去ってしまった。体を求め合うためのアプローチを長くするのが嫌いなのは、彼も彼女も同じであった。
「もしもし」
「あら」
「昨日は悪かった、さっさと帰ってしまって」
「いいえ」
和也からの電話を期待したが優介の声で少しがっかりした。だがいつもの調子で応えたので彼は気付かない。
「今日、帰りは車?」
「そう、だと思う」
「てことは?」
「また置いて行くかもしれない」
瞬間、このスカートではバイクに乗れないことを思ったが、車で帰ろうが帰るまいが要は和也とどこかで会えば良いわけだから、それは彼から電話があった時に決めれば良いことだ。優介にどう言おうと誰の知ったことでもない。
「もう予定が入ったんだ」
「そうなのよ」
「それは残念だ」
ふと窓外に目をやると、案の定4車線道路の向こう側に立つビルの窓に受話器を手にしてこちらを向いた優介がいた。表情までは見えない。和也がいはしないか背後に目を向けたが、皆腰掛けていて、麻衣子のところからは頭しか見えない。
「じゃ、また電話する」
優介はあっさりと電話を切った。やはり誠とは違う。誰とどこで何をするかなどと意味も無く追及して来ない。優介は自分にとって最良のパートナーだと麻衣子は思った。
いつも通り麻衣子は地下の社員食堂で昼食を摂り、同僚と共に再びオフィスへ戻った。ある者は読書しある者は30分ほどの眠りを貪り、またある者は取りとめのない雑談を愉しむ。麻衣子は読みかけの文庫本に目を落としながら電話の方をも気にしていた。本のストーリーがクライマックスに差し掛かり、少し集中して読みたいところなので、電話がかかってくることを考えながら読むことがとても煩わしく、彼女は結局本を閉じてしまった。代わりに手帳を取り出し、今まで書き込み忘れていた過去の動向やこれからの予定などをかいつまんで埋めて行った。
最近の麻衣子は残業が多い。他の女子社員はこの課だけを見ると月平均20時間程度だが、彼女はその3倍以上、男子社員と並ぶくらい残業をしている。これでよく疲れることなく男たちと付き合っていられるものだと自分でも呆れるくらいだ。だがこの仕事が麻衣子を必要としているし、他の社員にしてみても麻衣子の存在がとても重要なのだ。テキパキと仕事をこなし、頭の回転も速く話題が豊富でしかも適度にイイ女で・・・彼女は車で通勤しているので終電を気にしない。デートがあるからと言って仕事をないがしろにしない。メリハリのある態度は彼女の魅力でもあり脅威でもある。さて、と手帳を閉じると電話が鳴った。受話器を耳にすると聞き慣れない男の声がした。しかし和也だとすぐに分かった。電話だと彼の声はひどく少年ぽく響く。良い声だなと麻衣子は思った。
「村上さん?」
「そうです」
「電話だと違って聞こえる」
「私もそう思ったところよ」
「良い声だね」
「あらありがとう」
向かいのビルの窓に目をやった。優介なら麻衣子から見える所に立っているのだが、和也はそうではないのだろう。2、3人立ち動いている中に彼らしき人はいなかった。
「午前中に佐久間が君に電話してたろう」
「よく知ってるわね」
「話し声が聞こえた」
「席が近いのかしら」
「背中合わせなんだ」
「そう」
再び目を外に移したが今度は誰も見えない。
「どこからかけてるの?」
「下の喫茶店」
「あなたは私用電話をしないのね」
「いいや、俺のデスクには電話が無いんだ。佐久間のところからかけなきゃならない。何だかそれは憚られてね」
「なるほど」
「今夜どうしようか」
「私、帰りは車なの」
「送ってもらうんだ」
「ううん、私、いつもは車で通勤してるのよ」
「へえ。でも今朝はどうして?」
「金曜日は電車で帰宅したから」
「俺は何てラッキーなんだ」
「ほんとね」
「それじゃ、一旦家に車を置いて大森まで電車で来れば良い。駅まで迎えに行くよ」
「つまりあなたの部屋に行くってことね」
「そういうこと」
「わかったわ」
何の躊躇いも無く麻衣子は和也の部屋を訪ねることを承諾した。お互いに仕事の具合によっては残業するかもしれないので計画は流動的なものにし、麻衣子が和也の部屋に電話を入れることにした。
その夕、麻衣子は2時間残業し、同僚と夕食を摂ったので、大井町のマンションに着いたのは9時を過ぎていた。和也の部屋に電話をすると、待ちかねた声をした和也が出た。
「今から出ます」
「着替えた?」
「うん」
「何を着てる?」
「土曜日と同じ」
「かっこいいね」
「そう?」
「ピンクのベアトップだろ」
「そう」
「すごく強烈に印象に残ってるんだ」
「そう」
「君を思い出そうとするとその格好が浮かぶ」
赤いデイパックを肩に掛け、優介が放ったヘルメットを受け取る麻衣子を思いながら和也は話していた。



