ビルの正面から外へ出た麻衣子は駐車場へは向かわず、真っ直ぐ川崎駅への道を辿った。信号待ちをしながら空を見上げると真っ赤な月が東の空に浮かんでいた。星は見えない。2、3日前に雷を伴う俄雨があり、その後に妙にムシムシしたと思ったら、今日ようやく梅雨明けだ。そしてこの赤い月。残業で疲れたわけではないが、今夜は車の運転をする気になれなかった。明日の土曜日車で海へ行こうと優介と計画した。優介は車を持たないので、車でというと麻衣子の車を意味する。優介に意地悪するわけではない。赤い月がいけないのよと麻衣子は思った。月曜の朝まで車が無いのは不安だが、たまには良いさと即座に気持ちを切り替え、久し振りに歩く駅までの道のりをゆっくりと歩いた。
 部屋に着くと麻衣子はすぐに優介に電話した。
「どうした。疲れてるみたいだな」
「そお?」
「麻衣子が疲れを見せるなんて珍しいぜ」
「やあねぇ、鉄人じゃあるまいし」
 車を会社に置いて来たことを告げると、
「海はパスか」
とさほど残念そうでもない答えが返って来た。明日の朝また電話するよと言い彼はあっさりと電話を切った。
 ブラインドのプレートを1枚指で押し下げると東の空に月が見えた。が、もう赤い色は失せていた。さっきより高い位置にあり、しかも小さく見えた。
 優介が海行きの話が無くなったことを残念がらないのは、多分今優介の部屋に女がいるからだと麻衣子は直感した。女がいることを麻衣子に隠そうとしたのではなく、部屋にいる女に別の女から電話が来たことを隠そうとしたのだと、麻衣子は言われなくてもわかる。イヤではない。優介の数多い女の中に自分がいることを麻衣子はとても光栄に思っている。いろんな女を抱いて比べて、レベルの高いところで率直に評価されたいと麻衣子は思っている。優介が1人の女に夢中になるのは構わないが、それがもし自分だったら煩わしいだろうなと、優介には申し訳ないが麻衣子は冷めた気持ちでいた。俗に言う美人の要素という物を何1つ持っていないと麻衣子は自分について評価している。例えば色白だとか富士額だとか足首が細いとか。70%だけ自分に自信のある麻衣子は残りの30%の中で自分を磨こうとしている。自分を完璧だと思うことは簡単だ。身の程知らずになれば良い。自信の無い部分を自覚することが大切なのだ。麻衣子に魅力を感じる者が多くいるとすれば、自分を磨こうとする努力が彼女を光らせているからだろう。
 バスルームへ向かう麻衣子を追いかけるように電話が鳴った。無防備な心境で電話に出たので、電話の向こうの誠が気を悪くしたような声を出した。
「麻衣子かぁ」
 電話ではあるが思わず鼻を摘まみたくなるような酒臭い息が伝わって来た。飲んだくれて誠が電話をよこすのは珍しくない。一緒に住んでいた頃は夜中に終電に乗り遅れたから迎えに来いと電話して来たこともあった。勿論そんな時麻衣子は返事もせずに電話を切った。
 今誠はただダラダラと上司の悪口だの仕事の辛さだのを麻衣子にぶつけている。部屋に電話を持たない彼は多分近くの電話ボックスの中でだらしなくしゃがみ込んだりして話しているのだろう。次に待っている人がいたとしても気にするような男ではない。
「そこいくとお前なんかぁ、楽だぜぇ、女だしよぉ。どうせ人間関係なんて大して考えなくて良い仕事なんだろ。明日は土曜日だってのに休みやがってよぉ。よぉ、電気屋ってのは気楽で良いよなぁ」
 また始まった。女は楽な仕事しか与えられないとか、自分の職業が一番大変だとか、身勝手な比較論をぶちかますのは誠の悪い癖だ。楽をして生きようとする人間に限ってそういうことを言う。
 3分ほどの間生返事をしていた麻衣子だが、とうとう耐え切れずに電話を放り投げるように切ってしまった。留守番電話に切り替えバスルームに向かった。すぐにかかって来たが構わずシャワーを浴び、朝までそのままにしておいた。
 次の朝、麻衣子は朝食を摂りながら留守番電話のテープを聴いた。誠がしつこく5回かけて来た後に優介の声があった。テープを止め優介の部屋に電話をした。電話に出た彼の声は些か間が抜けていて、どうやらこの電話で起こされたようだ。
「電話ありがとう」
「夜中に済まなかった。出掛けたのか」
「ううん、誠からの電話がうるさかったから」
「なるほどね」
「酔っ払ってクダを巻く例のパターンよ」
「成長しないな、あいつ」
「今日はこれからどうするの?」
「別に」
「今1人?」
「そうだよ」
「帰ったんだ」
「うん・・・あれ、何で知ってんの?」
「勘よ」
「鋭いな、流石に」
「来ない?」
「麻衣子んとこ?」
「うん」
「珍しいな」
「素直に返事してよ」
「勿論行くさ」
「待ってるわ」
 優介のアパートから麻衣子のマンションまでは30分もかからない。バイクでもあれば10分もかからず着く距離だ。1時間後優介は麻衣子の部屋に居た。
 ベランダにスツールを出し、麻衣子の煎れた緑茶をすすりながら景色を眺めている優介は、まだはっきりと目覚めていないような顔だ。午前3時にタクシーに乗せて帰した女は、麻衣子からの電話を咎めた。彼女は自分が彼にとって唯一の女ではないことに不満があり、それでも尚別れられずにダラダラと彼を愛していると思い込んでいる。彼はそれが煩わしい。だからむずかる女を無理矢理タクシーに押し込んだ。来る者は拒まないし、去る者は追わない優介も昨夜ばかりは女の態度に辟易した。その点麻衣子は、と思いながら部屋の中へ目をやると、ライティングデスクに鏡を置いて彼女は化粧をしていた。優介のところから丁度彼女の右目が見えた。麻衣子はいつでもドライでクールだ。その麻衣子がどんな心境の変化から自分を部屋に招んだのか、優介は不思議であった。彼女がこのように態度を和らげるなど誠と暮らして以来無かったことだ。
「麻衣子」
「なあに?」
 アイブロウペンシルを持つ手を休めずに麻衣子はのんびりとした口調で返事をした。
「シャワー浴びて良いかな」
「あら」
 さもつまらなそうにそう言い、優介の方を見ると軽く口を尖らせた。
「だめか」
 ベランダを離れ、湯呑みを手にした優介は、珍しくだだを捏ねる麻衣子の傍に立った。
「だって海に行こうと思ったんだもの」
「車が無いんでやめにしたんだろ」
「借りるのよ」
「レンタカー?」
「うん」
「麻衣子」
「なあに?」
 あとは口紅を塗るだけの麻衣子の顔を優介は黙って見下ろした。口紅の色が無いと顔色が悪く見える。
「単車で行こうか」
「え? あなたバイク持ってた?」
「借りるのさ」
「どこで?」
「大森に会社の同僚がいる」
 そう言うとデスクの上に湯呑みを置き、電話借りるよと言うと電話に手を伸ばした。ポンポンとボタンを押して耳を澄ます優介を麻衣子は黙って見上げていた。
「ああいたか。俺だよ。佐久間」
 単車を借りたいと申し入れると相手は快く承諾したらしく電話はすぐに終わった。

 ピッタリと張り付くブルージーンズにピンクのベアトップを着て赤いデイパックを肩に掛け、麻衣子は優介が来るのを待っていた、履き古したプロケッズのテニスシューズの紐を結び直しながら正面の空を見上げると、東京ガスの大きなタンクが見えた。どこかの学校の野球のバックネット越しにタンクの丸い頭が覗いている。午前中にしては強い夏の陽射しの中で、薄緑色のタンクが子どもの頃に観た怪獣映画に出て来る悪玉のように麻衣子の目に映った。
 暫くするとヘルメットを2つ腕に掛けて優介が歩いて来た。その後ろから黒いバイクがドッドッドッというエンジン音をさせて優介を追い越し、麻衣子の前で停まった。その運転手が優介の同僚なのだろう。優介と雰囲気が似ている。白いTシャツに赤いジョギングパンツを履き、踵を踏み潰したスニーカーを足に引っ掛けていた。
「初めまして」
 バイクに跨ったまま軽く頭を下げた男の後ろから、優介が赤い方のヘルメットを麻衣子に放ってよこした。
「木村和也だ。こっちは村上麻衣子」
 紹介されたその男はまるでサーファーのように陽に焼けていて、白い歯がとても目立った。その白い歯を見てくれと言わんばかりに覗かせてニタニタと笑っている。麻衣子も、柔らかくそして何等かの意味を持たせた微笑みを返したが、和也も優介も同時にその意味を察知してしまった。優介はしまったと思い、和也はやったと思った。2人の男の顔色の変化を伺いながら、麻衣子は彼女なりの「思わせぶり」が成功したことを知った。
「佐久間の奴、君のことなど一度も話してくれたことが無い。大学時代からの付き合いだって?」
 バイクから降りながら和也が言う。優介より少し背が高い。
「付き合いってほどのものじゃないよ」
「嘘吐け。お前が女を眺めて終わるような男かよ」
「他人のこと言えるか」
「俺はお前みたいに卑怯な事はしない。全く、一番イイ女はこうやって自分のためだけにとっとくんだからな。聞いて下さいよ、俺の女が何人こいつに取られたことか」
「ばーか、そんなこと言ったって麻衣子は驚きもしねえよ」
 男同士のぞんざいで軽い会話を聞きながら、麻衣子は大人しく微笑んで立っていた。和也に代わってバイクのハンドルを握った優介は、麻衣子に、乗れよと言った。
「明日返すよ」
「月曜の朝までに返しといてくれれば良い。気を付けて行けよ」
「お前とは違うさ」
「お前は死んでも村上さんは殺すなよ」
「うるせぇ、死なばもろともだ」
 和也は麻衣子に右手を差し伸べた。麻衣子が左手を差し出すと、和也は笑ってそれを自分の唇に押し当てた。優介は少し眉を顰めたが、何も言わずスタートさせ背後に向かって手を振った。