エレベーターで1階まで下り、管理人と朝の挨拶を交わし、自動ドアの外に出た。するとそこに1人の男が立っていた。その男は5分ほど前からそこで人待ち顔で立っていたのだ。麻衣子をみつけると笑顔で、やあと言った。
「あら、お早う。どうしてここに?」
 歩を緩めずにいつもの速さで麻衣子はマンションから50m程の所にある駐車場へ向かう。男は立ち止まらない麻衣子に少し慌てたが速度を合わせ並んで歩いた。
「麻衣子を待ってた」
「何故?」
「会いたかったから」
「何も朝のこんな慌ただしい時間にしなくても良かったでしょうに」
「昨日夜中に突然会いたくなったんだ。でも我満したんだぜ」
 その男は佐久間優介。麻衣子の大学時代の同級生だ。あの頃ほんのちょっとの間恋人同士だったことがある。その後はいつの間にか友達関係に変わり今に至っている。
 優介の勤める会社は麻衣子が勤める会社のビルの丁度向かい側のビルにある。それも同じ階なので、時々4車線道路の向こうのビルの窓に手を振る優介を見かけることがある。優介がそのビルのその階にある会社に就職したのは偶然ではない。麻衣子を追いかけてわざとそこに入社したのだ。同じ会社にせずわざわざ向かいのビルにしたのは麻衣子との劇的な再会を計算したからだ。そんな優介に麻衣子は半ば呆れ、そして嬉しくもあった。
「昨夜は下成が来てただろう」
「あら、誰からの情報なの?」
「電話にあいつが出た」
「そう、電話をくれてたの。聞いてないわ」
「卑怯な奴だ」
「あいつらしいわ」
 全く、自分の部屋でもないのに勝手に電話に出、しかも麻衣子にそれを告げないなんて、けじめの無い奴だ。そんなところも麻衣子はイヤだった。
 駐車場は車が8台置ける広さだ。入り口の左から奥へ向かってズラリと並べられるように横にロープが渡してある。車と車の間の仕切りはそれだけだ。整地されていないので雨の日はぬかるみになり滑る。これで3万円かと麻衣子は駐車場を見る度に思う。隣の敷地との境界にあるブロック塀に村上様と書かれた木片が打ち付けてあり、そこに麻衣子の車があった。
 手に持っていた鍵を車のドアに差し込みながら麻衣子は、
「ところで何の用?」
 と優介に尋ねた。優介は車の前を通り過ぎ助手席の方へ回りながら、
「仕事の後どう、これ、付き合わないか」
 これ、と言いながらコップを持つ仕草でクイッとやれば、誰でも酒を飲むことだと分かる。だが麻衣子は無粋なその動きが好きではないし、誘い方として失礼だと思っているのでわざと首を傾げた。
「何の事?」
 ドアを開け、麻衣子は車に乗り込んだ。左手でドアのアンロックボタンを押した。3枚のドアのロックが一斉に外れた。優介が助手席に乗り込んできた。麻衣子がムッとした訳を分からない優介ではなかった。
「ごめんごめん、だからさ今夜一緒に食事しようぜ」
「最初からそう言いなさい」
「はあい」
 教師にたしなめられた生徒のように優介は返事をした。
「それで返事は?」
「勿論OKよ」
「今日は早帰りの日だもんな」
 優介のオフィスから、5時になるとパタパタと仕事を終えて帰って行く姿が窓越しに見える。彼の会社では向かいのビルの会社は待遇が良いと羨ましがる者が多い。 
「この車、麻衣子のだったんだよな」
「そうよ、どうして?」
「下成の奴が自分の車のように乗り回してたからさ」
 この車は麻衣子が自分で買った。大学時代にアルバイトをして貯めた金と就職して最初にもらったボーナスを合わせて100万円になった時、何のためらいも無くポンと現金で買ったのだ。中古ではあるが前の持ち主が全くと言って良いほど乗らなかったらしく、走行距離が150㎞を超えていなかった。女が最初に乗るにはかなり贅沢なセダンだ。
 免許を取る時も車を買う時も、誠は意味の無い変な理屈を捏ねて反対した。何もしようとしない自分を恥じもせず、何もかもマイペースでやり遂げる麻衣子をやっかんでいた。車に関して1円も出そうとしないくせに平気で無断で乗り回した。ガソリンもウォッシャー液も空になったらなったでそのまま放って置いた。麻衣子が使う時になって慌ててガソリンスタンドに駆け込んだことが何度かあった。不満と不信は募ったが、麻衣子は誠に対して敢えて何も言おうとはしなかった。そしてある日突然誠の前から消えた。誠が勤め先の学校の合宿か何かの引率で留守にした1週間に自分の車で3日かけて引っ越した。誠は麻衣子の母に泣きついて彼女の居場所を突き止め、麻衣子に詰め寄ったが、麻衣子は平然としていた。例えどんなに悪態をつこうが、口で言うほど大逸れたことができる男ではないことを彼女はよく知っている。喚き叫ぶ誠の醜態は未だに友人たちの口に上る。往生際の悪さと優柔不断は今も全く変わっていない。
 やっとのことで青物横丁交差点まで辿り着いた。狭い仙台坂ではバスが走っているため、止まっては少し進みまた止まってしまう。ノロノロも良いとこだ。
「もう少しスムーズに進む道は無いのか」
 渋滞に憮然としていたために暫く無言でいた優介がようやく口を開いた。
「色々走ってみたけどこの時間はどこもおんなじよ」
「電車で通った方が楽だろうに」
「定期代を払い戻すといくらか浮くのよ」
「ガソリン代の方が安い?」
「そう。それに車の方が楽だわ。電車のラッシュはもうイヤよ」
 第一京浜に入ると車は流れ始めた。車線を左へ右へとスムーズに移動しながら麻衣子は無駄の無い走りをする。
「ここのデニーズ可愛いと思わない?」
 反対側を麻衣子が指差すので目をやると、テラス風の造りがその辺りに不釣合いなレストランがあった。
「大方『海へ行こうぜ』っていうミーハーな連中をターゲットにしてんだろ」
「あら、そんな言い方しないでよ。私行きたいと思ってるんだから」
「あ、麻衣子と一緒なら、俺行く」
「ばーか」
 右側の車線に車を保ち陸橋を渡ると踏切で一旦停止する車が列を作っていた。幸い遮断機は下りていなかったので、暫くすると踏切は渡れた。
「今日はラッキーだわ。いつもならここでまた暫くノロノロなのよ」
「俺が乗ってるからだ」
 六郷橋に至ると麻衣子は俄然速度を上げた。
「浪費した時間をここで取り戻そうって訳だ」
「そういうこと」
 橋を渡り終えるとすぐ右に折れ、宮前通りに入る。川を渡っただけでこんなにも雰囲気が違うものかと不思議なほど町の感じが変わる。川の向こうは東京の外れ、こちら側は東京という都会に近いという意識を町自体が持っているかのようだ。整然とビルが立ち並ぶ通りを抜け、地下道を1つくぐると2人の会社はもうすぐだ。
 社員専用駐車場は部外者立ち入り禁止なので、優介はゲートの前で降ろされた。
「それじゃ帰りはここで待ってるよ」
「OK」
 麻衣子の車の後ろに別の車が付いたので麻衣子は黙って車を前進させた。ガードマンにIDカードを提示してから、決められた場所へ車を置くために奥へ向かう麻衣子を見届けて、優介は信号の無い広い道路を横断した。何故だか不意にビートルズのレコードジャケットが優介の頭に浮かんだ。4人が横断歩道を一列縦隊で渡っている写真だ。だがその風景は再び麻衣子の事を思い浮かべる事によって打ち消されてしまった。
「麻衣子のような女をキャリアウーマンと言うのさ」