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 サクソフォンの音色が早口みたいに聞こえる音楽の中で、今日という一日を伝え終えたテレビの中の男が丁寧にお辞儀をする。僕は味のしなくなったガムの味を確かめるみたいにもう一度噛んで、テレビの前に放り出されたティッシュを手元に寄せた。やっとガムを棄てたら、なんだか急に僕一人世界から取り残されたような気持ちになった。体を横たえる。大の字になってみる。ジャケットを着たままだなと思うけど、脱ぐのが少し面倒くさい。目を瞑ってみる。目を開けてみる。どうして彼女は、もう誰かのものなんだろう。

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 僕はどんなにだって狡くなれる。そのことを最近知った。ずっと知らなかっただけで、僕はきっと生まれつきそういうやつなんだろうなと思う。それでもいい。彼女が僕を「狡いね」っていう言葉で許してくれるなら、いくらでも狡い男になろうと思う。

 「誕生日プレゼントのお礼がしたいから」って言ったら、きっと彼女は「そんなのいいよ」って断るだろうと思った。笑顔で、語尾を歌うみたいに伸ばしながら優しく僕を拒否するに違いない。だから僕は「頼みたいことがあるんですけど」って言った。言い訳を用意してそれを差し出すことでしか僕は想いを伝えることができない。

「来月の定休日。時期が時期だから予定があったらそっち優先してもらってかまわないんですけど。」

 僕はレジ裏の出入り口を塞いでいる大き目のダンボールにカッターで浅く刃を入れながら言った。聞こえなかったかな、と思うくらいの間が空いて、彼女は振り向いて僕を見下ろした。それからもう一度カウンターの上の伝票に向き直ってとても軽く「いいよー」と言った。僕は一瞬手を止めてそれからダンボールの蓋を力任せに開いた。ガムテープがバスンと音を立てて、その時、僕の心の中でも何かが爆ぜたみたいな気がした。

 ルビーのピアスをあげたいと僕はずっと考えていた。赤いみたいなピンクみたいなルビーのピアス。ビーズのように連なっているものや、虹の欠片のようにカラフルなものや、おままごとのプリンセスみたいな飾りがついたものや、大きさも形のまちまちのいろんなルビーのピアスを見た。だけどどれも皆少しずつ気に入らなくて、それはまるで、僕の気持ちそのものみたいな気がした。

 彼女のような額や、彼女のような瞳や、彼女のような耳たぶや、彼女のような手や指、彼女と似た声や、彼女と似通った思考を持つ誰かがきっとどこかにいて、あるいは案外近くにいたとして、それはありえることかもしれなくてもその人は彼女ではない。僕には何の意味もない。

 もうほとんど諦めかけたとき、僕は彼女がいつもしているピアスとそっくりのピアスを見つけた。あまりにも彼女のイメージと違う宝石店だったし僕はいつも素通りしてしまっていたのだけれど、その日、ちょうど彼女と同じ歳頃の女性がその店舗に入っていく後姿を見てなんとなくウィンドーを覗いたのだった。そのピアスはお手頃ないろんな色と形のピアスの中にあって大人の女性にプレゼントにするにはちょっと安すぎるような値段のものだった。でも僕はそのピアスを見つけたとき、これ以外にはないと強く思った。僕はドアを開けて、先に入った女性に何かを見せている店員さんに向かって、もしかしたら僕が生きてきた中で一番しっかりした声で「あのピアスが欲しいんですけど」と言った。あの時のあの店員さんの苦笑いを僕は生涯忘れることはないと思う。

 ピアスはとても小さなジップ付きのポリ袋に入れられた。彼女のピアスが入っていると思うとそれだけで僕はその小さな小さなジップ付きのポリ袋がなんて立派な仕事をしているんだろうと思えて、このジップの袋を僕らの画材屋でも使ったらいいのにと思った。ピンバッジを入れたりだとか、他には、他にはそれほど小さなものは取り扱っていないにしても。

 それから僕はそのピアスをどうやって渡そうか眠れない夜にはいつもそのことを考えた。そのことを考えていて眠れないこともあった。僕にとって眠れない夜も眠れる夜も彼女のことを考えているのはもうその頃には当たり前のことだった。さんざん色々考えても、結局答えなんてない。こと彼女のことに関するすべてのことは僕の命がついえるその日まで、もしかしたらその日ですらも答えなんか見つかる訳がないと思う。



 
 『今日はありがとう』
 ちょっとしょっぱいみたいなキャラメルを口の中で転がして、僕は自分が泣いているのではないかと思った。だから受け答えがぶっきらぼうになってしまったんだと思う。ありがとうって本当はとても大事に伝えたかった。僕こそありがとう、と。

 彼女が先に立って歩き出したときに、僕は彼女の手を引いた。その時彼女がどんな表情をしていたのか僕は見ていなかった。僕はただ、僕が掴んだ彼女の左手の手のひらがゆるく開いていてその中で鈍く光っている指輪と対峙しながらポケットを探った。小さなジップのポリ袋を見つけて彼女の手の上にかざすと、彼女はちゃんと受け取る手を開いて僕は彼女のその手のひらにポリ袋に入ったピアスをのせた。

 彼女は手のひらにのったピアスをじっと見つめた。それから袋をつまんで目の前で翳してピアスを確認すると、僕を見た。

 「気に入ってるみたいだったから。」

と僕は彼女の手首から手を下ろして言った。他になんて言っていいのか分からなかった。他になんて言ったらいいのか僕が言葉を捜している間中、彼女はまだ僕を見つめていた。太陽が沈みきったのか展望台がほんの少し暗くなった気がしたとき、今度は彼女が僕の手を取ってピアスのポリ袋を僕の手に預けた。彼女の耳たぶを飾っているあの鮮血を閉じ込めたみたいなピアスは、いまこの夕闇の中ではまるで血豆のように見えた。鮮やかというよりはどす黒く、ひっそりと息絶えてしまったもののように。それでもやはり彼女の耳にあるそのピアスは美しかった。彼女は、左耳、右耳とピアスをそっとはずして、その二粒のピアスを僕の手のひらに置くとその指でポリ袋を取って中のピアスを出した。

 「ほんと、おんなじだ」
 と、彼女はつぶやいた。それからピアスをはずした順番と同じように左耳、右耳と新しいピアスをつけて、いつもやるみたいに耳たぶを摘んだ。

 この人のことが好きだと強く思った。何もかも放り出して彼女を抱きしめてしまえばよかった。だけど僕は手のひらに乗ったピアスがまだ彼女の温もりを携(たずさ)えているような気がして動けなかった。そしてその温もりを確かめるために僕がピアスを持った手を握り締めようとした瞬間、彼女は僕の手のひらにのったピアスをつまみ上げポリ袋の中に落として封をした。行き場のない僕の想いを封じ込めるみたいに。


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 寝転んだまま、デニムのポケットに手を突っ込んで左手に触ったポリ袋をひねり出して掲げた。シーリングライトに翳されたルビーはやはり鮮血のような赤色だった。よく見ると、二粒のルビーは色が違うように見える。「そうなんだ」と僕は独り言を言った。僕があげたのも右と左で色が違うのだろうか。いつか、この目でそれを確かめることができたらいいのに。


 いろんな角度で翳していたらピアスがポトリと僕の額に落ちて、それから一瞬後に耳の横でピアスが落ちた音がした。僕はポリ袋を持った手を下ろして、しばらくじっとしていた。僕の心の中で彼女を想い続けてひっそりと滲んでいる血が止まりますようにと祈った。




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