「止まれ」の赤い標識がフロントガラスの向こうに見えた。その一瞬前に目の端に捕らえたハンドルを握る彼女の手首を、あの手首を押さえたら…と想像して彼女を窺って、赤い標識に気づいてしまったから僕は彼女の手首から目を逸らさなければならなかった。それで居住まいを正すみたいに真正面を向いた。それから彼女を見ずにドアを開けた。ハザードの音が遠のき彼女が身じろいだ衣音が聞こえた。ドアを閉めると、彼女は助手席側のパワーウィンドウを開け身を乗り出してドアの外の僕を見上げた。僕の言葉を待ってる。けど僕は何も言わなかった。彼女は何かを言いかけて、でも何も言わなかった。


 「ありがと」と僕はようやく言った。その声は少し掠れていた。彼女はなんとなく少し呆れたみたいな感じで笑って「また」と首を傾げて、運転席に身体を戻すとハンドルを握って車を発進させた。車は上手に合流して僕の視界から見えなくなった。見えなくなったのを確認してから僕は、「また」と言った。それは、どういう「また」なんだろうと真剣に考えた。


 『また後で、』とか、『また今度、』とか、『また電話するね』とか、『また行こうね』とか。それか『また、職場でね』とか。




 フライトジャケットに手を突っ込んで回れ右をする。ポケットの中にガムを見つけて僕は二粒口に放り込んだ。夕闇の中に点こうかどうしようかと迷うみたいにコンビニエンスストアの看板が光っていた。(牛乳を切らしてたかも)こんなに切ないのになんでそんな所帯じみたことを考えるのだろう。僕の足は自然とコンビニに向かって迷うことなく牛乳パックの棚の前に立つ。そして馴染みのあるパックを掴んでレジに並ぶ。




 玄関を開けたら一人暮らしには十分な下駄箱があって、僕はその上に牛乳パックが一本だけ入ったレジ袋を置いた。下駄箱の上のスペースに、白木の枠の数センチの厚みのある額縁が置いてあって、その中には豆粒がみっつ縦に並んでいる。

 『芽が、出るのかしら?』

 僕の頭の中で彼女が今日も言う。目の高さまで持ち上げてまじまじと見入った後に、僕を振り向きながらそう言った。彼女のパーマのかかったポニーテールが揺れて、ルビーのピアスが蛍光灯の光を受けて光った。

 『だんなさんから貰ったの?』

 と、僕は訊いた。

 『唐突だな。何を?』

 彼女はちょっと困ったように笑ったのだ。


***


 画材屋でバイトをしようと思ったのは画材が好きだったからだし、たまたま見つけたからだ。接客業が向いていると思ったことはない。彼女が画材屋でバイトをしているのは、たまたま見つけたからだし、接客業が向いているからなのだそうだ。特に画材じゃなくても良かったと彼女は言っていた。でも僕達は画材屋で出逢ったし、僕は彼女の描くポップや画材屋に愛想のように置いてある美しく愛らしい雑貨を陳列するセンスが好きだ。手を動かしながら僕達はたくさん話をした。たくさん話をしたからって、誰かに惹かれるという理由にはならない。でも、彼女には僕が惹かれる理由がたくさんあった。美しい額や、小さな耳たぶや、少し下がった目じりや、セーターやTシャツから少しだけのぞく鎖骨とか、体系の割りにふっくりとした手とか、その手の紡ぎだす絵のような文字や、その文字をなぞる声や、それ以外の彼女のいろんなところだ。

 たとえば、お客さんが戻し間違えた刷毛や筆を素早く見つけて直せるところとか、入荷した額を丁寧に検分しながら作家さんがつけたタイトルとは別のタイトルを考え出したり、そんなこと思いもしなかったと思うような感想を言ったりするところとか。

 そう、具体的に言えば、豆粒が三つ並んだ壁飾りの額を見つめて、

  「芽が、出るのかしら?」

 というような感想を言う彼女だ。


 少し厚みのある額を目の高さまで持ち上げてまじまじと見入った後に、レジのカウンターの中にいる僕を振り向きながらそう言った。彼女のポニーテールはカールがあちこちを向いている。彼女の小さな耳たぶでピアスが光った。彼女はよくそのピアスをしていた。鮮血を閉じ込めたみたいな赤い小さな四角いピアスだ。天窓のある中二階の模型の陳列棚らへんだとピンク色に見える。多分、昼間にお店の外で見たらピンク色なのだろうけれど、僕は日がある時間にお店の外で彼女を見たことがなから分からない。彼女はいろんなピアスを持っていて、どのピアスも彼女にとてもよく似合っていたけれど、その赤い小さな四角いピアスは特に似合っていた。それに頻繁にそのピアスをしているから、きっと気に入っているのだろう。誰かからのプレゼントなのかなと考えて、僕は、ついつい口に出してしまった。


 「だんなさんから貰ったの?」

 と。
 そんな無粋なことを尋ねる自分自身に少し呆れて、僕は僕を見ている彼女と少しの間見つめ合った。ほんの一瞬、時間が止まったみたいな感じだった。時計の針をつつくように、彼女は言った。

 「唐突だな。何を?」 

 「その、赤いみたいな、ピンクみたいな、ピアス。よくしてるから。」

 「あぁ、これはね、誕生石なの。ルビー。自分で買ったのよ、ずっと昔に。」

 ずっと昔ってどれくらい昔だろう。

 「気に入ってるの」と、彼女はピアスを押さえた。指輪をした左手で。


 僕は、彼女がガラスケースに並ぶピアスを選んでいるところを想像した。するとどうしても彼女の隣には僕の知らない男がいて、彼女はいちいちその男を見上げるのだった。そんな自分の想像に心底気分が滅入ってきて、僕は美しい特殊な名前のついた青い油絵の具のボール紙を解く手を早めた。そしてごまかすみたいに尋ねた。


 「誕生石…、って何月なの?」

 「七月」

 「・・・くんは?」

 と彼女は僕の名を君付けで呼んだ。僕の記憶が確かなら、彼女が僕の名を呼んだ初めてのときだと思う。

 「誕生日、いつ?」


 僕は言おうかどうしようか少し迷ってから

 「今日」

 と言った。


 「今日?ほんとに?」

 「うん、ほんとに。」


 彼女は僕を少し探るように見つめて、それから手にしている厚みのある額縁を見つめた。



***


 牛乳を冷蔵庫にしまってテレビをつけた。姿勢の良い男がニュースを読んでいた。彼の短髪は嘘みたいにナチュラルで、信じられない位真剣な瞳でテレビのこちら側にいる僕に伝えようとしている。なのに僕にはどうしても彼の伝えていることが、僕から一番遠い惑星の出来事のように思える。

 ずっと噛んでいたガムを棄てるのにまだ着たままのフライトジャケットのポケットを探った。指先に当たったのはキャラメルの紙だった。
 『虫歯が気になるけどね』
 と、僕の頭の中で彼女の声がする。僕はキャラメルの紙をポケットに戻してガムの紙を探した。

 テレビ画面はふたコマ割になって、LEDライトの青白い光がまるで宇宙を指差すように聳(そび)えている、その隣で姿勢の良い男が少し前にのめっていて、にこやかに何か言っている。メリー・クリスマス、とかそんなようなことを。「メリー・クリスマス」と僕は声に出して言ってみる。「メリー、クリスマス」もう一度。

***

 赤い夕焼けが、ルビーのような色をしていた。何度も想像したみたいに、後ろから彼女を抱くことも、手を繋ぐことすらできなかった。ただまっすぐに赤い夕焼けを見ていた。ちょっと時代遅れみたいなタワーの展望台から。時代遅れなところがいい、動いている東京を絨毯のように敷いて、世界を手に入れたみたいな気になれる展望台から。沈んでいっているはずの太陽は、目に見えない厚い層のどこかに隠れていた。ただ赤い。真赤が、いろんな真赤が滲んでいた。

 「ルビーみたいな赤だ。」
 「そうね、ルビーみたいな色だね」
 「その、ピアス。してきてくれたんだね」
 「うん、リクエストだったから」

僕はそっと手を伸ばした。最初は人差し指の先でそのピアスに触れて、それからいつも彼女がやるみたいに耳たぶを摘んだ。彼女の小さな耳たぶに乗ったピアスの感触を確かめるように少し指を動かした。すると彼女が首を竦めたので、僕は急いで手を離した。
 「ごめんなさい」
 と急いで謝った。彼女は俯いてううん、と首を降って許してくれた。僕はとても悪いことをしたような気がした。とても悪いやつだ、僕は。本当に悲しいと思う直前、彼女は急に頭を上げて、手を出した。僕も手を出した。彼女の手が差し出す手だったから僕は受け取る手を出した。手の中に、キャラメルがひとつ落ちてきた。
 「虫歯が気になるけどね」
 と彼女はいつもみたいに微笑んだ。この人は大人だなと僕は思った。僕の悪さなんか、ほんの一瞬で許してしまうほど。悔しいよな、と僕は思う。だから少し奥歯を噛んだ。僕の歯は、もう虫歯になったみたいに少し痛かった。歯が痛いのは全部、彼女がくれるキャラメルのせいだと思うことにした。そしたら歯が痛いことなんかなんでもないことのように思える。実際、そんなに痛い訳でもない。当たり前だ、まだキャラメルを口にしてさえいない。
 キャラメルの包みを丁寧に開けてキャラメルをつまんだ。甘い、ほんの少ししょっぱいキャラメルの味が口の中にいっぱいになった。

 「今日はありがとう」
 と彼女が言った。
 「ありがとうなのは、こっちだし」
 と僕は言った。僕の言い方は少しぶっきらぼうだった。だけど彼女はそんなこと気にしていないみたいだった。残念なことに。