寛人は町工場をやめたあと家に帰り、それから間もなく私たちは結婚した。

結婚後、私の父が亡くなったあと傾いた家業を再建して母を喜ばせた。

子どもにも恵まれ、忙しい中にも充実した日々を過ごしている。

少しずつ従業員の数も戻り、なんとか事業主の対面も保てるようになってきた頃だった。 

それは、美容院で偶然目にした雑誌の記事だった。

服飾メーカーの御曹司の婚約を伝える記事を、私は食い入るように読んだ。

利樹と別れて何年たったのだろうと指おり数える。

4年以上は経っている、彼が今まで独身だったとは……

美容院をでると、迷っていたことを実行した。

思い残すことなく別れたはずなのに、いまだに利樹の携帯番号は残っている。

あの華やかな時の記録として、番号だけが存在していた。

彼はとっくに消去しているだろう、番号は変わっているはず、でも……もしかして……

思い切って電話をかけた。



「もしもし、亜矢子か……」


「驚いた。あなた、番号を変えてなかったの? まさか本当に繋がるとは思わなかった」


「君こそ僕の番号を消してなかったのか……週刊誌を見たんだろう? 元気そうだね」


「おかげさまで。あなたも元気そう。婚約おめでとう、ステキなお嬢さんね」


「やっと、君を思い切ることができる人に逢えたよ……」


「えっ?」


「そんなに驚くなよ。僕だって、こんなに諦めの悪い男だと思わなかった」


「ねぇ、聞いていい? 私達が別れた日、お互い背を向けて歩いて別れたでしょう。

あのとき、もしかして、あなた、振り向いたの?」


「あぁ、振り向いた。未練がましく、いつまでも亜矢子の背中を見送った」


「そうだったの……」


「君は颯爽と立ち去ったけどね。まっすぐアイツのもとへ帰っていった。

手放したのは僕のほうだ。初めから決めていたことなのに……後悔したよ」



あの頃、彼が私を必要としなくなるまでそばにいようと思っていた。

それなのに、利樹から解雇を言い渡され、その時がきたのだと、半分腹を立てながらも自分の役目は終わったと言い聞かせた。

何より私には寛人がいた。

寛人と再会して、私にはやはり寛人のそばが一番似合うのだと思った。

利樹のことは割り切っていただけに、まさか彼が私と別れたことを後悔していたとは夢にも思わなかった。



「あの時、もしも私が振り向いたら、私達どうなっていたかしら」


「さぁ、どうだろう……やっぱり彼の元に送り返しただろうね」


「後悔しても?」


「あぁ、後悔してもだ。君の居場所はここじゃない、僕が縛りつけたら君は不幸になる。

亜矢子には、もっと自由に生きて欲しいと思った」


「あなたの言う通りかもしれない。まだ資金繰りに追われる日もあるけれど、自分たちの力でやっていると思うもの」


「ご主人、頑張っているじゃないか。業界紙で君たちの会社の名前を目にすることが増えたよ」


「なんとかやってこられたのは、あなたのお陰よ。あなたは私に、人脈と経営を教えてくれた。

いま、おおいに役立っているわ」


「君なら生かせると思った。ちゃんと気がついてくれたんだ」


「ありがとう……私、娘が生まれたのよ。あなたも幸せな家庭を築いてね」


「そのつもりだよ。君も」


「えぇ……あなたのアドレス、電話を切ったら消去するわ。あなたもそうしてね」


「うん……電話ありがとう」


「お話しできてよかった。お幸せに」



電話をきったあと、ためらわず俊樹のアドレスを削除した。

これで利樹と私を繋ぐものは何もなくなった。

彼も削除してくれただろうか。

もしかして……

いえ、考えるのはよそう。

握っていた携帯をバッグにしまって家路の足を速めた。



娘と遊ぶ寛人の声がする。

子煩悩な彼は、会社が近くであるのを良いことに、昼休みに娘の顔を見に帰ってくる。



「ほら見てごらん、ママが綺麗になって帰ってきたよ」



夕方からの予定のため早めに帰宅した夫は、膝に娘を抱き楽しそうに遊びに付き合っている。

服が皺になるのもかまわず娘と遊びに興じている様子に、手にした幸せをあらためて感じた。



「お願いだから、寝転がって遊ぶのはやめて。新調したスーツがしわになるじゃない」


「ママはうるさいなぁ」



娘に向かって冗談とも思えぬことを言い、二人で内緒話のように顔を寄せ合っている。

今夜は、久しぶりに夫婦で出席する会食の予定が入っていた。

夫には、この前デパートで買ったネクタイと、それにあわせて購入したネクタイピンを準備しよう。

私はどのネックレスをつけようか……

ジュエリーボックスを開けて、思い出のあるネックレスを手にした。

変わらぬ輝きを放つプラチナは、夫のタイピンと揃えたようだ。

毎晩のように着飾り、利樹の隣で過ごした。



「君にはプラチナが良く似合う」



そう言いながら、利樹はいくつものネックレスを選んでくれた。

そのジュエリーに似合うドレスはこれだろうと、仕事柄、確かな目でドレスを選び、靴をあわせていった。

懐かしさが体を通り過ぎていく。

夫と娘の笑い声が聞こえてきて、華やかな記憶とともに、手にしたネックレスをジュエリーボックスにしまった。