尋ねた先にいたのは、私が見たことのない寛人の姿だった。

いつもきちんとスーツを着て、手が汚れる仕事から一番遠くにいるだろうと思わせるほど、一緒にいても汗の臭いなど感じたこともなかった。

案内された工場の奥にいた寛人は、地味な作業服に身を包み、重い安全靴を履き、額に汗をにじませて、他の従業員とともに一心に機械に向かっていた。

私は寛人を忘れてはいなかった。

いつも心のどこかで思い、勝手に姿を消したことに苛立ちながら、彼の存在を追い出せずにいた。

父の親友の息子である寛人は、兄弟の中で私と歳が近いこともありよく一緒に過ごした。

父が亡くなったあと、寂しさに耐える私を見つけると黙って横にいてくれる、そんな優しさが彼にはあった。



「町工場の技術を学びたいからと、二年ほど前ですかねぇ、彼がうちに来たのは。

まさか、有名な会社の息子さんだったなんて、我々も驚きですよ」



町工場の社長は、寛人の人となりが気に入って雇い入れたのだと教えてくれた。 

仕事の手が空き、ようやく私のそばに来た寛人は、はにかんだ顔で 「久しぶり」 とそれだけ言うと、目と鼻を真っ赤にして下を向いた。

仕事が終わるのを待っていると、僕の住んでいる街を案内するよと、汗の光る顔が私を誘った。

下町の商店街で、肉は肉屋で、野菜は八百屋でと小分けに買い物をする寛人は、歩きながら顔見知りに会うと陽気に声をかけ、買い物先では声を掛けられていた。



「お兄さん、今日は彼女が一緒かい? その顔いいねぇ、今日は一段と顔が緩んでるよ」



親しげに話しかける八百屋の主人は、私へのサービスだと言って果物を余計に入れてくれた。

ここが寛人が過ごしてきた街なのだ。

利樹と時々通った高級スーパーのように気の利いた品物はないが、ここには温かいふれあいがあった。

案内されたアパートは、かなりの年代物だったが、造りはしっかりしているんだと自慢げに言い、年季の入ったドアに鍵を差し込んだ。

板張りの台所は四畳半ほど、その奥に六畳の和室があり、綺麗に片付いた部屋に余計なものはない、質素に暮らす様子が見て取れた。



「一日中締め切っているからね。ちょっと寒いけど空気の入れ替えをするよ」



ガラガラと懐かしい音を立てながら、寛人は油に染まった手で立て付けの悪い窓を開けた。

窓から見える景色は、ごちゃごちゃとした家の屋根と近くの公園の木々で、都会の中の小さな森の枝葉がそよそよと風になびいていた。



「思ったよりいい眺めね。それに静かだわ」



もっと言いたいことがあるのに、ありきたりの言葉しかでてこない。

大きな手が私の肩に置かれ、しばらくして胸の前にゆっくりと腕が回された。



「親父の会社に入って、経験を積んで、いつか亜矢子の親父さんの会社を再建するつもりだった。




それでも良かったかもしれない。

だけど、亜矢子の親父さんの代わりになるつもりなら、それじゃダメだと思った」
 

「うん……」


「誰の助けも借りず、一人でやって、何かを掴んでみようと思った。 

一人前になって亜矢子の前に戻るつもりだった。黙って出て行って……ごめん」


「心配したのよ……」



背中から寛人の思いが伝わってくる。

苦しいほどに抱きしめられた腕に、自分の居場所を見つけた気がした。

狭いけれど綺麗に片付いた寛人の部屋で、私達は二年ぶりに肌を重ねた。

かつて慣れ親しんだ唇は、私に息をさせる間も与えず覆い、二年分のキスを挑んだあと、余すことなく肌をたどっていった。




互いをむさぼるように抱き合ったあとの静けさにたえられず、「手を見せて」 と頼んだ。

油が取れないんだと、指先を隠すように見せてくれた手には、間違いなく彼の努力のあとが刻まれていた。

ここには世界に通用する技術がある、すごいだろうと目を輝かせ、自分が身に着けた技術や、ここで得た知識を熱心に語る声を、寛人のひと回り大きくなった腕に頭を預けながら一晩中聞き続けた。




「退職金を払わなきゃいけないね。何がいい?」


「そうねぇ、いきなりの解雇ですから、それなりに頂こうかしら」


「君も言うじゃないか。わかった、それなりのものを探しておくよ」


「あなたとの契約が終わったら、このドレスも靴も必要なくなるわ。

報酬代わりにもらっても、置き場所も、着ていくところもないの。




どこかに、引き取ってくれるところがあるといいのだけれど」



今夜も某会社会長の喜寿のパーティーに出席して、利樹と腕を組みながら色気のない会話が続いていた。



「いい店を知ってる。高価で買い取ってくれるはずだ。今度の休みに行ってみようか?

あっ……僕が一緒じゃまずいね」


「いいえ、そんなことない。私とあなたは雇用主と従業員よ。




一緒にいてまずいことなど、どこにもないと思うけど」



彼の顔が少しだけ緩んだ。

固い顔ばかりしていると石膏像みたいになるわよ、などと意地悪を言ったこともあったが、この頃はそんなこともなくなり、表情も思考もクッションが入ったように柔らかさが加わっている。

数日後、契約期間に受け取ったほとんどの品物を持って、彼の紹介する店へと向かった。

私の手元には予想をはるかに上回る退職金と、気に入って手放さなかったジュエリーがいくつか残った。