「編集長が来るぞ!」
自分のデスクで、向田さんに頼まれた書類作りをしていると(病院からやることのリストを送ってくれている)、社員の一人が走りながらやって来た。
一瞬、静かになったと思うと、みんな一斉に、服装を整えたり、デスク周りをキレイにしたり、いそいそと見栄えをよくし始めた。咲も、他の社員にならい、あまり備品がそろっていないデスク周りをキレイにし、首から下げている名前のプレートもちゃんと前を向くように整えた。
すぐに、自動ドアが開く音がした。
みんなが息をひそめるのを感じ取る。
とうとう、編集長と対面だ。
すらりと長い足で颯爽と歩く人物。(あやめと言い、どんだけこの会社には長い足がそろってるのよ)、黒いスーツと黒いネクタイ、そしてオールバックにした茶色い髪。そして鋭い眼光には見覚えがあった。
昨日のチンピラだ!!
咲は、大きな木の影に隠れるように身を縮めた。こういう時ほど、低い身長は役立つ。
「お、おはようございます!編集長!」
どこかの勇者が、一番に声をかけた。
勇気ある行動に心の中で拍手を送るだけで、誰一人彼に続くものはいなかった。
編集長と呼ばれた男性も、その言葉を無視し、オフィスをざっと見渡してから奥にある編集長専用のオフィスへと向かう。しかし、社員が何も起きなかったと、安堵のため息を吐く手前で、「おい」と低い声で編集長が誰かを呼んだ。この瞬間、咲を含む、全てのメンバーが息を止め、呼ばれているのは自分の名前ではないだろうかと怯えていた。
「お前、来い」
そう言って指さされたのは、咲だった。木の影に隠れる作戦は失敗に終わったようだ。
咲は口をパクパクさせながら、別の社員に目を向ける。他の人たちは、自分が生贄にならなくて済んだことで、安堵の表情を隠せないでいる。今まで、咲を無視していた社員でさも、今日だけはなぜか咲と目を合わせ、ぎこちない笑顔を見せている。
「早くしろ」
既に自分のオフィス前にいる編集長のどすのきいた声が届き、咲は観念して重い足取りで鬼の待つ、鬼ヶ島へと向かった。

「座れ」
編集長の部屋はシンプルな作りになっており、広い部屋のわりには物は少なかった。デスクに座っている編集長は、目の前で床を直視している咲をじろじろと見る。
「お前、新人か?」
「…はい」
汗が噴き出す手を強く握りしめながら、咲は消え入るような声で言った。
「だから、昨日俺のことが分からなかったのか?ここの編集長だって?」
テーブルの上にある〈編集長:桐生 蓮〉と書かれた名前のプレートを、バシバシとペンで強く叩く。
…ああ。やっぱり昨日のことで…。
「すみません…」
実の事を言うと、あやめが編集長のことをおっさんと呼んでいたから、40代くらいの人を想像していた。
だから、昨日話しかけられた時、一瞬たりとも「この人編集長かも!」、なんて頭をよぎらなかったのだ。
それでも、務めている部署の上司の顔を知らなかった自分が悪いということは分かっていた。昨日まで名前も知らなったのだから。
「昨日は…本当に、すみませんでした…」
咲は床を見つめたまま、かすれた声で謝る。
「まあ、自分勝手な編集長が悪いんだもんな?」
そこも聞いていたのかー!
咲は震えている手をさらに強く握りしめた。
「いえ、あの、それは…」
「俺の名前が聞こえたと思ったら、自分勝手と来た。しかも、上司の顔を知らない雑用係が、わざわざ届けに来たのに、渡さずに帰るしな?」
あー…これはガチのお怒りだ…。
冷や汗が背中を伝う。
「おい、これお前のだろ?」
桐生がポケットから、咲のスマホを取り出した。すでに電源が切れているようで、画面は真っ暗だ。
「あ、はい…」
「昨日、誰と話していたんだ?ここの社員か?」
これはまずい方向へ行きそうだ…。
慌てて状況を頭の中で処理し始める。ここであやめの名前を出せば、さらにあやめへのパワハラがエスカレートしてしまう。
「えっと…なんのことですか?」
なるべく何もないかのような顔を作ってみる。
「しらを切るつもりか?」
ニヤリと意地悪く笑う目の前の鬼に、背筋がひやっとした。
「いいんだぞ?ここの社員全員に聞いたって。俺の名前を聞くってことは、ここのメンバーだよな?」
なに、この人、怖い!!
「さて、俺が見つけたあかつきにはどうしようか?この俺を侮辱した罪で、辞めさせてもいいんだ。お前も、そいつも。どうする?」
咲は、強く唇を噛みしめた。
「でも、ここでお前が吐けば、お前もそいつも首だけは免れる。さあ、どうする?」
頑張って頭をフル回転させるが、今はあやめの名前を出す以外に良い解決策はなさそうだ。
あとで、あやめに全力で謝ろう。
「…月島あやめです」