「久しぶりなのに、黙ったまま?」
桐生は立ち上がり、そのまま固まっている咲に近づいた。
「なに…してるんですか?こんなところで」
努力して出た言葉がそれだった。レイさんでさえも居場所を知らない人が、今ここにいる。
「会いに来た」
桐生は咲の前に立った。
「お前に」
「…なんで?」
カラカラの喉から、声を絞り出した。目が瞬きを忘れてしまったかのように、桐生を見つめ続ける。
「好きだから」
たった今彼の口から出た言葉が理解出来なくて、同じ質問を繰り返す。
「なんで?」
「え、なんで…?」
思わぬ咲の返答に、心外そうな顔をした桐生の顔から目が離せない。
「お前が、好きだから。会いに来た」
またもや繰り返される、ずっと聞きたかった言葉。そして一生聞くことは出来ないと思っていた言葉。
やっと脳みそが、自分の仕事を思い出したかのように動き始めた。
彼の言葉の意味が分かった瞬間、今度はパニックに陥った。
「え?え?だって…」
そしていつの間にか、目から大量の涙があふれていた。
「何、泣いてんの」
呆れたように笑いながら、桐生は自分が着ているスーツの袖で咲の涙をぬぐう。
「だって、あやめが…」
「俺もずっとそう思ってた」
ウルスラの席に寄りかかりながら桐生は言った。
「でも、お前がいなくなって気づいた。本当の気持ちが、誰に向いているのか」
とにかくどう頑張っても止められない涙と格闘する咲。近くにあったティッシュを何枚も取り出してぬぐう。
「月島にも言われたんだよね」
「あやめが…?」
手が止まる。
「月島の方が、早くから知ってたみたい。俺の気持ちが、ずっと成瀬に向いていたこと」
「そんな…」
こんなことってあるのだろうか?
今、夢を見ているの…?
「俺、自分が思っていた以上に、お前がいないとダメだったみたい」
半ば自分でも呆れると言ったように、呟く桐生に、咲は胸が締め付けられる。でも、今までの胸と痛さとは全く違った。
「それを言うためにここまで来たっていう…。この俺が」
腰を持ち上げ、桐生は「じゃあ」と言って出て行こうとするので、咲は震える声を絞り出す。
「ちょ、ちょっと待って…」
桐生が向き直る。
「わ、私の気持ちは聞かないんですか?」
「お前の気持ちは知ってるつもりだよ…」
言いたくなさそうに桐生は続けた。
「あの営業課の…真島棗って男が好きなんだろ?」
「は?」
予想外の名前が飛び出し、一瞬にして涙が止まった。
「いいよ、隠さなくて」
「え、何言ってんの?」
思わず、敬語が取れるが気にしない。
「よくカフェテリアでいちゃついてただろ」
咲の声の態度が急に変わったので、桐生も声が少し大きくなって反論する。
「いちゃ…。え、あれでそう思うの?バカなの?」
「お、お前、今俺のことバカって…」
「バカですよ!棗は…」
咲は、桐生に近づいた。
「ただの従弟です!」
一瞬、オフィスに沈黙が流れた。
「は?」
今度は桐生が驚く番だった。
「いとこ?」
「はい、子供の頃から一緒に育ってきた、従弟です」
「おまっ…なんで」
それを隠してたんだよ、って言葉は桐生の口から出なかった。その前に咲が言った。
「私が好きなのは、編集長だけです」
桐生の二重の瞳がさらに大きくなる。
「ず、ずっと好きでしたが、あやめ一筋だったので言えませんでした…。フランス来る前に、編集長とあやめが付き合ってるっていう話を聞いて…それで…」
だんだんと言い訳している自分が恥ずかしくなり、語尾がどんどん小さくなる。
「私の居場所がなくなったと思っ…」
その先は、言うことが出来なかった。
唇が重なり、桐生の腕が、咲の腰に回される。
「ちょっ…待っ…」
「黙って」
やっと止まったばかりの涙がまたあふれ出す。
2人はしばらくの間、お互いの存在を確かめ合うように深く深く口づけを交わしていた。