しかし、転機は突然訪れる。
もはや、仕事中以外は抜け殻のように人生を送っている咲の唯一の支えは、自分のデザインの仕事が認められることだ。
ある日の午後、咲はデザイン部長から呼び出された。
「座ってちょうだい」
いつもはフレンドリーで笑顔のレイさんが、真面目な顔をしてソファーに腰かけている。
「失礼します」そう言いながら、緊張の面持ちで腰を下ろす。
何か、失敗してしまっただろうか…
頭の中を急いで回転させ、直近の出来事を思い出す。
怒られることもあるし、小さな失敗をすることはあるが、呼び出しをくらう程の失態はまだ犯していない気がする。
「あなたの最近の仕事は」
レイさんが口を開いた。咲は、唾を呑み込んだ。
「とても良いわ」
ホッとして顔がほころぶ。
「良かったです…」
「あなた程のやる気がみんなにも伝染すれば、さらにデザイン部は成長出来ると思う」
最高の褒め言葉だ。
失恋したせいで、仕事に没頭していないと泣いちゃいそうで、とは言わなかった。
「そう言ってもらえて嬉しいです」
「私たちは、フランスに支社があるのはご存知かしら?」
45歳とは思えない程のきれいな脚を組み替えて、レイさんが言った。
「はい、聞いたことあります」
この会社に入る前に、あやめが行っていたのを思い出した。
「咲ちゃん、行ってみない?フランス」
「え、私がですか?」
驚きのあまり大きな声が出てしまった。しかし、編集長のオフィスと同じで防音が施されているため、外には聞こえなさそうだ。
レイさんがにっこりと笑った。
「私も昔、そこでお世話になったことがあるの。とても鍛えられたわ」
「でも、私が…」
「そこで今、インターンを募集しているの。最近の頑張りを認めて、咲ちゃんをぜひって推薦しちゃった。どうかしら?」

滅多にないチャンスよ。よく考えてから答えを出して。
その言葉を思い出しながら、咲はベッドに横になっていた。
それから、決心したようにスマホを取り出した。


「だから、私フランスに行くことにする」
夜のカフェには、咲とあやめの他に2組ほどしか客はいなかった。
あやめはじっと聞いていたが、目には涙が溜まっていた。
「分かってはいたけど」
「あやめ…」
「いざ、それが現実化すると、めっちゃ悲しい。どうしよう…」
あやめのキレイに整った顔がくしゃくしゃになり、本格的に泣きだした。
「泣かないで。インターンなだけだし」
「フランスは、咲の昔からの夢だって、大きな夢だって、知ってるんだけど…」
しゃくりあげながらあやめは、途切れ途切れに言った。
「でも、これから咲がいないって考えた瞬間…」
「もう…一生行くわけじゃないんだし」
あやめにもらい泣きした咲も、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。
店員さんも、他のお客さんも何事かと見てくるが、気にしない。
「うん…。頑張ってよね。私を捨てて行くんだから」
変な誤解を招くような言い方に、咲は思わず泣いたまま笑顔を作る。
「うん、頑張ってくる」
あやめも、編集長とお幸せにね。という言葉は最後まで言うことが出来なかった。