ゆったり。ゆっくり。ふんわりと。
 包み込むように優しい音色が耳に届いて、僕は目を覚ました。
 これが、彼女の言っていた”ちゃんとした曲”か。

 なるほど、言い得て妙だ。

 そういえば。
 彼女との出会いも、こんな感じだったな。
 大学構内の旧音楽室。
 いつまで経っても買い物戻ってこない器楽部の皆を待ち飽きて眠ってしまって、目が覚めたら彼女がピアノを弾いていた。

 別れの曲、なんて悲しいタイトルの独奏曲を、とても楽しそうに、慈しむように。
 必死になって、けれど明るく弾きこなすその様子が何だか可愛らしくて、僕はそこで起きると「君には合ってないね」と言った。
 すると彼女は、僕がいたことには気が付いていなかったのか、とても驚いた様子で「ひゃっ」と可愛らしい声を上げた。
 ごめんね、と一言謝って話を聞いてみると、器楽部へと入部しに来たのだけれど、誰も居ないから――ということでピアノに指を滑らせていたのだと言った。

 決定的なきっかけは、しかし存外と些細なことだった。

 出会いから数ヶ月後、たまたま手に入れたプロのコンサートのチケットが丁度二枚だけあって、特定の誰かと二人きりで沢山話したのが彼女だったから、誘った。
 それがもし男友達だったとしても、僕はきっとそうしていた。
 その時は、誰でも良かったのだ。

 すると、彼女はとても嬉しそうにチケットを受け取ってくれた。
 この人の演奏、実はずっと聞きたかったのです、と。

 そうして迎えた当日。
 コンサートを聴き終えての帰路だった。
 夕暮れ迫る湖岸沿いなんて、如何にもなシチュエーションじゃないか。
 当たるだけ当たって、最悪砕けても良いか、くらいの気持ちで、彼女に声をかけようとした。

 しかし、それよりも僅かに早く、彼女の方から名前を呼ばれた。 

 応えると、お付き合いをしませんか、との申し出だった。
 正直、本当に心が躍った一番の瞬間は、この時だったと思っている。
 まさか、高々数ヶ月の付き合いで、互いに思いを寄せ始めていたなんて、思わなかったから。

 実は僕も――

 そう言って答えると、彼女は安心したように泣き出した。
 懐かしくも甘酸っぱい、良い思い出だ。