もうそろそろ、僕の中で何かが爆発する。
 そう思い始めていた頃、彼女が左耳のイヤホンを外した。
 すると、何があったのか、僕の目を真正面に見据えて、尋ねてきた。

「これを弾いてる時、どんな気分だった?」

「え?」

「楽しかった? 気持ち良かった? それとも、嫌だった?」

 と。
 嫌な訳は、勿論ない。
 現状で僕が知っている曲の中では、何より好きで、弾いていて一番充実していた。
 そう答えると、彼女は表情を一変。
 穏やかな笑み浮かべながら、スマホを僕の手の平に乗せた。

「きらきら、ふわふわ――音が、生きてる。とっても素敵な音」

「音が……?」

「うん、あくまで私の表現なんだけどね。でも、そう見えちゃうなぁ。君の指が叩いた鍵盤から弦を伝って、空気を通して、幸せな音が届いた」

「……そう、ですか」

「信じてない?」

「あぁいえ、そうではなく……演奏はアレなものですが、僕、それを弾いている時、とても楽しかったから。大好きな曲を、僕の音で聴いて貰えることが、嬉しかった」

「――それは、とっても強い武器だよ」

 私にはない。
 そう付け足して括って、彼女はまた次の曲を所望した。

 バスは、また次のバス停を過ぎている。
 次は、また少し短めのドビュッシー“小舟にて”。
 外で水が跳ねているのを見ていて、何となく次はこれだと思っていたものだ。

 かけ始めて少ししたら、また彼女は左右に揺れ始めた。
 長い髪も、ひらりとした薄い羽織物も、一緒になって楽しそうに揺れている。

 本当に、音楽が好きなんだなあ。

 ただ才能があるから、才能があってお金もあるから、と天上に入れられる人も少なからずいるらしいが、彼女に限っては、本当に好きだからやっているんだ。
 聴くのも、弾くのも、楽しめるから、天上にいるんだ。

 何だか、羨ましいな。

 僕は確かに、クラシックが大好きだ。
 けれど、上を上をと意識するような気概は、正直言ってない。
 自分の満足いく到達点まで辿り着ければ良くて、そこに他人の演奏との比較はない。
 僕の気が済むように出来れば良いだけなのだ。
 ちょっとくらい――彼女ともっと言葉を交わせば、何か少しくらい変わるかな。
 新しい刺激とか、あるのかな。

 そんなことを思っている内に、バスは次のバス停へ。
 同時に、イヤホンから流れる音も途絶えた。

 今のが、四曲目。
 次が、最後だ。
 何をかけよう。
 ラヴェル? ショパン?
 最後に相応しい曲を探して、画面をスクロールしていく。

 すると、彼女が僕の手からスマホを取り上げて、データは大丈夫かと尋ねた。
 CDから取り込んだものを流しているから、データはほぼほぼフルで残っている。
 そう答えると、彼女は「おっけー」と言って、検索欄に文字を打ち込み始めた。

 頭に人の名前、スペース、ドビュッシー“雨の庭”。

「これが、私の一番」

 そう言って彼女がタップした、僕のスマホの画面。
 写っているのは、グランドピアノに向き合う、ドレス姿の彼女。

「これ――」

「終わったら、感想とかくれると嬉しい」

 画面の中の彼女が、大きく深呼吸をした。
 録画ものの筈なのに、張り詰める緊張感は僕にまで伝わってくる。

 弾く前から、こんなに――

 そう思っているのも束の間。
 胸いっぱいに溜め込んだ息を吐き出すと、彼女は、これ以上ないくらいの明るい微笑みを浮かべて、目を閉じた。

 そして数秒。
 薄っすらと目を開け、その細く白い指先を、鍵盤の上に置いた。
 静かに、旋律が響き始めた。

 ピアノ気味の、両手の速い動き。
 不安感を孕んだメロディーラインに始まり、鮮やかに明るいフレーズ、そしてまた怪しい足取りの主旋律――と、切り替わり切り替わり、姿を変える不思議な曲。
 どのフレーズを弾いている時も、彼女は手元に目をやっているが、どこか別の所を眺めているみたいだった。

 そう。まるで、音を鳴らすその機械ではなく、辺り一面に広がる音の粒を、一つ一つ愛でているように。

 なんて、幻想的なんだろう。

 先、隣で指を動かしていた時とはまた違う――いや、それより何倍も、聴いているこちらがざわつかされる。
 早く、次のフレーズを聴かせてくれ。
 そうせがむように、画面から視線を離すことが出来ず、食いついたままで。

 これが、クラシックの魅力。

 これが、彼女の“音”。
 なるほど。

 これは――惚れ惚れするな。