「それで? なにをあれこれ考えちゃってるのかな、若菜ちゃんは。この恋の伝道師アスナさんに話してみなさい」

「伝道師って……恋の悩み限定ですか? あの、そういう類ではないんですけど、大事な人に隠し事をされているのが寂しくて」

 森で出会った青年の件は伏せてモヤモヤの原因を打ち明けると、アスナさんは「大事な人って?」と聞き返してくる。名前を出すのは後ろめたかったのだが、思い切ってシェイドとローズさんだと伝えた。

「なるほどね、でも――」

 うんうんと頷きながら聞いていたアスナさんがなにかを言いかけたとき、どこからか声が飛んでくる。

「自称ローズって名前からして怪しいし、なにを隠してんだろうね。あのオネエ騎士様は」

 急に話に入ってきた誰かに辺りを見渡していると、頭上の木から二十代後半くらいの黒装束の男が降りてくる。

「「アージェ!?」」

 相変わらず身のこなしが軽やかな彼に、私とアスナさんの驚きの声が見事に重なった。

 隠密といって日本でいえば忍者のような仕事をしていた彼は、カーネリアンの瞳とハネの強い橙の髪を後頭部の高い位置で結っている。

 かつて敵同士だったこともあり、シェイドと斬り合いになった際、肩の神経を負傷した彼は前のようにスムーズに腕を動かせなくなってしまった。

 その手当てとリハビリを担当したのが私だったからか、監禁部屋にいた彼に話し相手になってとせがまれたり、危険な目に遭った際は助けようとしてくれたりと関係性が大きく変わった。

「あなた、どうしてここに?」

 ニドルフ王子に仕えていた彼は反逆罪に問われていて王宮の一室で監禁され、兵の監視下にある。外出許可なんてそうそう下りないはずなのだが、彼はどんなに目を擦っても目の前にいる。

「王子に開放してもらったんだよ。条件付きでね」

「へえ、なになに? 条件って」

 あとで聞いた話なのだけれど、アスナさんを含めて他の騎士隊長の皆さんはアージェの部屋に遊びに行っていたらしくすっかり打ち解けている。

 今も親しそうにアージェに話しかけているアスナさんを見て、監禁されて退屈そうにしていたアージェに友達ができてよかったなと親心のようなものを抱いていた。

 ひっそり感激していると、アージェの口から信じられない単語が飛び出す。 

「猪突猛進な奥さんの護衛」

「……それ、まさか私のこと?」

「聞くまでもないでしょ、若菜さんしかいないって。月光十字軍の若菜さん護衛役兼隠密に任命されましたー」

 絶句してしまったのは、アージェを解放した理由があまりにも私情すぎるせいだ。

 それにアージェが晴れて自由の身になったのは喜ばしいけれど、護衛をつける話なんて聞いていない。
 固まっている私を見たアスナさんは、労わるように私の肩を軽く叩く。

「心配性だよね、王子って」

「猪突猛進なのはシェイドのほうなのに。私より自分に護衛をつけてほしいわ」

 そう口では言ったけれど、大切にされていることを改めて感じた私は少しだけ気持ちが晴れた気がした。

「それで、若菜さんたちの次の行先は?」

 成り行きで調査に同行することになったアージェが周囲に視線を巡らせながら聞いてきた。恐らく、他愛のない話をしている間も護衛として周囲を警戒してくれているのだろう。彼もアスナさんに似て掴みどころがない性格をしているが、根は真面目だ。

「これから、主な町民の水源を調べに……」

 答えながら私は井戸でリンゴを洗っている少年を見かけて、足を止める。井戸は子供でも水が汲めるように配慮したのか、低く浅い。その周りを放し飼いになっている牛が歩いていた。

「若菜ちゃん、どうしたの?」

 突然、足を止めた私にアスナさんが振り返るけれど、視線を井戸から逸らせない。なにか、大事なことを見落としてしまう気がしたのだ。

 浅い井戸は外気にさらされて土や砂、家畜の糞尿が入りやすい。そして、牛だ。確か、牛や豚、犬や猫などの哺乳類の腸には寄生虫がいたはず。

「災害看護の講習で習ったのよね、そう、確かクリプトスポリジウム。湿った環境では数か月は生きてるわ。井戸なんて最高の住処よね」

 この原虫が付着した食べ物や水を摂取すると、小腸に入り込んで増殖する。実際に患者には胃腸症状も出ていてクリプトスポリジウムの感染症状に当てはまるし、この井戸が原因かもしれない。

「お母さん、リンゴ洗ったから食べてもいい?」

「ええ、最後に手をちゃんと洗ってね」

 子供はそばにいたお母さんに言われたとおり、井戸水で手を洗うとザルに積まれたリンゴをひとつ手に取る。それを見た瞬間、私は血の気が引いてその場から駆け出していた。

「それを食べてはダメ!」

 私の叫びに動きを止めた子供の手から、リンゴを叩き落す。そのリンゴは井戸の中にポチャンッと音を立てて落ち、沈んだ。
 私はすぐに男の子の手を掴んで、万が一にでも口に触れないようにすると、お母さんを見上げた。

「町の人は食材をこの井戸で洗っているんですか?」

「え、ええ、そうです。前に使っていた井戸がこの間の嵐で壊れてしまって、二週間前くらいにこの新しい井戸が出来たんです」

 症状が確認されたのは二週間前からだ。もし、この井戸にいるクリプトスポリジウムが原因なら、感染から二日で下痢や腹痛、嘔気や嘔吐、軽い発熱が現れる。井戸ができた時期と合わせて考えてみても一致する。

「お母さん、そのリンゴは食べてはいけません。それから、この井戸で洗った食材を食べないように、町の皆にも伝えてください」

「わ、わかりました」

 私の剣幕に押されてか、お母さんは頷いてくれた。
 そこへアスナさんとアージェが追いついてくる。私はふたりの腰に水筒がついているのに気づいて、「それを私たちの手にかけてください」と頼んだ。

 アスナさんとアージェの飲み水で手を洗浄すると、私は子供に向き直ってこの井戸に近づかないように注意した。
 親子が町の人に声をかけに行くのを見送りながら、私はふたりにはっきりと告げる。

「毒の原因、わかりました」