初めに感じたのは首の鈍い痛みと全身の重い倦怠感だった。

「んっ……う……」

 瞼越しに光を感じて目を開けると、私は見知らぬ小屋のベッドにいた。
 室内に視線を巡らせれば、ダイニングテーブルや椅子、ソファーや暖炉もある。

 リビングの台所の壁には調理道具がかかっていて、簡素ではあるが一通り家具は揃っているようだった。
 上身体を起こすと腕や背中に痛みが走ったが、我慢できないほどではなかった。

 私、どうしたんだっけ……。
 額に手をあてて、今に至るまでの記憶を手繰り寄せる。
 復興祭の日、いなくなった子供を探しにシェイドと森に入った私は誰かに崖から突き落とされた。それで川に落ちる前、確かシェイドが私を庇うように抱きしめてくれて……。

「そうだ、シェイドは!?」

 大声をあげた途端、小屋の扉が開く。そこに立っていたのは木箱を持った五十歳くらいの女性だった。

「おやまあ、目が覚めたんだね」

「あの、あなたは……」

「ドーズだよ。川辺で倒れてたあんたたちを町の男たちに頼んで、ここまで運んできてもらったんだ」

 ベッドサイドの丸椅子に座ったドーズさんは木箱を開けて、私の首や腕に巻かれていた包帯を新しいものに変えてくれる。
 けれども私はその手を掴んで、ドーズさんに詰め寄った。

「シェイド……私の連れはどこに!?」

「ああ、あの紺色の髪の美丈夫のことかい? それなら、この村の医者のところにいるよ。村の施療院のベッドに空きがあんまりなくてね。あんたは軽傷だから、ひとまずうちで引き取ったんだ。お連れさんも目が覚めたら……」

 丁寧に説明してくれるドーズさんだったが、それどころではなかった私は失礼を承知で話を遮る。

「シェイドは無事なんですか?」

 それだけを連呼するとドーズさんは私の肩を軽く叩いて、「ちょっと落ち着きな」とため息をついた。

「あんたねえ……軽傷とはいえ、あんたも身体が冷え切って三日は目覚めなかったんだよ。もっと自分の心配をしなさいな」

「でも、大事な人なんです! あの人になにかあったら、私は……」

「あー、わかったわかった。それなら、リハビリがてら施療院に行くかい?」

 願ってもない申し出に私は勢いよく立ち上がって、ドーズさんに頭を下げた。

「お願いしますっ、今すぐにでも……!」




 ドーズさんに案内された施療院に到着すると白髪交じりの年配の医者がシェイドの元に案内してくれた。 

 ベッドに横になっているシェイドは額や頬、腕や足に至るまで痛々しい擦過傷がある。蒼白したその顔はまるで死人のようで、私は恐る恐る歩み寄り彼の頬に触れた。

「あ……あったかい……あったか……い」

 壊れた人形のように繰り返し呟いた私はシェイドの手を取って、自分の頬にくっつける。聞こえてきた息づかいと彼の体温を感じただけで胸が熱くなり、視界が滲んだ。

「生きててくれて……ああっ、本当によかった……っ」

 しばらく声を押し殺して泣いていると、シェイドがうめく。私は弾かれるように顔を上げて、彼の顔を覗き込んだ。

「――シェイド!?」

 私の声に反応してシェイドの瞼がぴくりと動き、徐々に瞳が開かれる。彷徨っていた焦点が私に定まると、彼は一度だけ瞬きをした。 

「……あなたは……」

「シェイド、心配したのよっ」

 たまらずその首に抱き着けば、シェイドはぎこちなく私の背に腕を回す。そのまま上半身を起こそうとしていたが、傷が痛むのか顔を歪めた。

「大丈夫? 無理しないで。寝たままでもいいのよ?」

「いいや、状況を整理したいんだ」

 そう言ってなんとかベッドに座った彼は私の顔をまじまじと見つめて、それから困惑したように口を開く。

「すまない……あなたは、誰だ」

 頭を鈍器で殴られた気分だった。私は彼がなにを言っているのかがわからず、頭が真っ白になる。

 彼は数十メートルはある崖から落ちたのだ。その拍子に頭を打って、その衝撃で脳に何らかの障害が出ていてもおかしくはない。そう理解はしていても信じたくない気持ちのほうが勝って、私は必死に目の前で起きている事実を否定し続ける。

「そんな……シェイド、私がわからないの……?」

 彼が生きていてくれて嬉しい。それだけで十分なはずなのに意思に反して、私の目からは涙がこぼれる。
 私の顔を見た彼は申し訳なさそうに眉尻を下げており、見かねたドーズさんが肩に手を載せてきた。

「辛いだろうが、彼は記憶喪失だろうね」

 ドーズさんの言葉とそれを肯定するように頷いた先生は、私と恐らくシェイドの心にも重く暗い影を落としたのだった。




 三日後、シェイドの怪我は幸いにも打撲と擦り傷で済んだため、私が目覚めた場所でもあるドーズさんの小屋に移ってもらった。

 ここはドーズさんが所有している空き家らしく、親切にも好きなだけいていいと言ってもらっている。

 施療院の先生も私たちから治療代を請求することはなく、村の人たちは野菜やパンなどの食料を恵んでくれている。私たちは村の人たちに助けられながら、過ごしていた。

「だからといって、ずっとお世話になりっぱなしはダメよね。シェイドの怪我が治ったら、私もなにか手伝わせてもらおう」

 まだベッドで眠っているシェイドを起こさないように静かに朝食を作りながら、私はひとりで呟く。

 ドーズさんの話によるとこの村はアストリア王国の西にあり、私たちのいた城下町から三週間かかる場所に位置する。

 川で流された距離はさほど遠くないのだが、城下町が高地にあるのに対してこの村はだいぶ低地にあるため、下るのに時間がかかるのだとか。私たちはその下り道を崖から落ちてショートカットしてきたというわけだ。

 私はシェイドが目覚めたその日のうちにドーズさんだけに事情を説明して、彼女の旦那さんにアストリア王国への救援を頼んだ。

 恐らくあと二週間ちょっとで、月光十字軍の誰かが迎えに来てくれるだろう。
 
「それまでは私がしっかり、シェイドを守らないと」

「でも、若菜は女性だ。守るのは男の役目だと思うが?」

「きゃっ」

 急に耳元で聞こえた声に、私の肩が跳ねる。後ろを振り向けば、髪もシャツも乱れているシェイドの姿があった。