「お母さんがあなたを売った事実は変わらないけど、初めから手放す気なら赤ちゃんのときにそうしていたんじゃないかしら」

 アージェは三人兄弟でお金もなくて、六歳のときに隠密を育てる里に売り飛ばされたのだと話していた。でも、六歳までは生活が困窮していても面倒を見ていたのだ。

「だからきっと、どうしてもあなたを手放さなければならない理由があったって、そう思ってもいいんじゃない?」

「本当に若菜さんはお気楽だよね、って言いたいところだけど……。ここにいる母親たちを見てるとさ、子供に愛情を注がない親はいないって話も信じられる気がする」

 素直に打ち明けたのが恥ずかしかったのかもしれない。それだけ言うと、アージェは屋台で肉を焼いているダガロフさんのところへ走っていく。

「ダガロフ団長、ハチマキまでして気合入りすぎじゃない?」

「アージェか、お前も肉を食え。ちゃんと食べないと――」

「あー……はいはい、食べるよ」

 アージェはダガロフさんに押しつけられた串焼き肉を受け取ると、渋々かじりつく。
 その光景をシェイドと眺めていると、目の前を追いかけっこをしている町の子供たちが横切った。

「若菜の子供は、さぞ猪突猛進に育つんだろうな」

「あなたの子供は、笑いながら毒を吐くんでしょうね」

「ああ、だが……きっと、あなたと作る家族なら……」

 不自然に途切れた言葉の余韻は切なさを残していた。
 もし私たちの間に子供ができたら、その子はエヴィテオールの王位継承者になる。王位争いで血の繋がった父や弟を失い、兄に殺されかけたシェイドは幸せな家庭を作れるのかが不安なのだろう。

「あなたらしくもない」

 私は隣に立つ彼に寄り添うように半歩だけ近づいて、その手を握る。シェイドの視線を頬に感じたけれど、私は広場を走り回る子供たちから目を離さずに告げた。

「きっと、私と作る家族なら幸せになれるだろうとか、そういう他人任せな考え方はあなたらしくない。いつものシェイドなら、堂々と俺が身内で争うような悲劇は起こさせないって言うところだわ」

「どうしてあなたは、俺の思っていることがわかるんだ」

「あなたの婚約者なんだもの、当然だわ」

 自信満々に言い切った私に呆気にとられた様子で固まったシェイドは一拍置いて、くくくっと喉の奥で笑い始めた。

「若菜、何度言ったかわからないが、本当にあなたには敵わない。闇に沈みかければ必ず照らしてくれる……あなたは暁のようだ」

 ひとしきり笑ったあと、彼は私の前髪をかき上げて額を重ねてくる。至近距離にある琥珀の瞳は燃えるような夕日の赤に照らされて、いつもより情熱的に見えた。

「早くあなたとの子供が欲しい」

「……っ、まだ結婚もしていないのに?」

 直球にものを言う彼にしどろもどろに答えると、シェイドはいつもの余裕を取り戻してからかいを含んだ微笑を唇に滲ませる。

「あなたは気が早いと思うだろうか?」

「ええ、でも……あなたとの未来を想像したら、待ち遠しくてたまらない。……なんて、思うのはおかしい?」

「いや、同じ気持ちだと確認できて嬉しい限りだ」

 満悦な表情のシェイドと見つめ合いながら湧きでる幸福感に浮かれていると、どこからか「誰か!」という切迫した叫びが聞こえてくる。
 同時に身体を離した私たちは声の方へ走り出し、蒼白した顔で辺りを見渡している女性を見つけて声をかける。

「どうかしたのか?」

「うちの子供が……っ、森に行ったっきり帰ってこないんです。もう夕方ですし、このまま戻らなかったらと思うと……」

 両手で顔を覆って泣き出す女性の背に私は手を添えて、シェイドを見上げる。

「探しに来ましょう? 完全に日が沈んでしまう前に」

 私は月光十字軍の救護班として、遠征についていくことがあるからわかる。夜の森は方向感覚も狂うし、狼や夜盗がいて危険なのだ。
 子供ひとりでは到底切り抜けられないので、シェイドも同意だと頷く。

「そうだな、あなたはここで待っていてくれ。俺たちで子供を探してこよう」

「ありがとうございます、ありがとうございます……っ」

 何度も頭を下げる母親から子供の容姿を聞いた私たちは、すぐに施療院の裏手にある森へと向かった。




 十五分ほどで到着した森にいざ足を踏み入れると、中は生い茂った木々で夜の如く暗かった。

 足裏が木の枝を折る音、草をかき分ける音、コウモリの羽音。ときどき獣の遠吠えのようなものが響くが、木の葉の揺れる音と合わさって人間の囁き声に聞こえなくもない。

「なんだか不気味ね。森に迷い込んだ男の子、怖い思いをしていないといいんだけど……。早く見つけてあげなきゃ」

「そうだな、だが……なんだ、この異様な視線は」

 シェイドは腰の剣柄に手をかけて、周囲に鋭い視線を走らせる。

「シェイド、どうしたの?」

「いや、獣だとは思うが複数の視線と殺気を感じる。若菜、俺から離れるな」

「わ、わかったわ」

 殺気を向けられている状況に私は息を呑み、シェイドの服の裾を掴む。そのまま離れないように森の奥へ足を進めながら、いなくなった男の子の姿を探していると、ふいに足音がして勢いよく振り返る。
 
「あっ、あの子じゃない!?」

 ローブを羽織った背の低い子供が私たちから遠ざかるように走っていく。シェイドが「追うぞ」と私の手を取り、勢いよく駆け出した。
 無我夢中で足を動かすと、やがて木々を抜けて開けた場所に出る。

「おかしいな、ここへ走っていくのが見えたんだが……」

 子供を見失ってしまった私たちは足を止める。訝るシェイドが辺りを見渡している間、私は目の前にある崖から視線を逸らせずにいた。

「ねえ、まさか……」

 崖の先まで歩いて行った私は遥か下に流れる川を見下ろして、血の気が失せる気がした。嫌な予感に心臓が騒ぎ、足がガクガクと震えだす。

「ここから落ちたんじゃ……」

 運よく川に落ちたとしても意識を失っていたら泳げないし、助からない。最悪の事態が頭を過って、呆然と突っ立っているときだった。

「――若菜!」

 耳をつんざくようなシェイドの呼号が響く。顔を上げるより先に大きな弾丸のようななにかにぶつかられて、私の身体は横に傾いた。

 ……え?
 視界が反転し、足元に空が見える。崖の上から六、七歳くらいの青緑色の髪とコバルトの瞳をした男の子が私を見下ろしており、落ちたのを確認したからか身を翻す。

 その子とすれ違うようにして、今度は崖の上から濃紺の髪と琥珀の瞳の彼が私めがけて飛び込んできた。

 どうして……。
 命の重みに違いがないと言ったのは私だけれど、彼はエヴィテオールを導く光だ。その身は簡単に投げうっていいものではないのに、迷わず私をその胸に深く抱き込む。

「死なせて、たまるか……っ」

 身体が水面に叩きつけられるのと同時に、耳に届いた悲痛な声。衝撃と痛みは一瞬で、川に落ちた私たちは流されながら深い深い水底へと沈んでいった。