「ここから赤ちゃん誕生までは二、三時間はかかるわ。旦那さんはナンシーにお水をあげたり、そこのうちわで仰いであげてね」

 檳榔(びんろう)の葉や割り竹で網代に編んだうちわを用意していた私は分娩台の横の棚を指差す。それを確認した旦那さんは吸い飲みを右手に、うちわを左手に持って待機していた。

 ナンシーは出産する自分よりも肩に力が入っている旦那さんを可笑しそうに見上げていている。

 でも、再び陣痛が襲ってきて、ナンシーはうめき声をあげた。
 子宮口が十センチはないと出産時に会陰が避けたり、道が狭いために赤ちゃんが窒息死する可能性があるのだが、彼女は十分開いている。

「声は出さないほうがうまくいきめるわ。『うーん』っていきんで、下腹部に力を入れて。最後に『ふっ』と力を緩めるのよ。そう、とっても上手ね!」

 彼女は事前にいきみの練習をしていたのもあって、いきみがうまかった。そのおかげで二時間後には発露――赤ちゃんの頭が膣から見えたままになる。
 
「ここから『はっ、はっ、はっ、はっ』っていう短い呼吸に変えて。旦那さんはナンシーの肩を叩いてリズムをとってあげてね」

 それに合わせて息を吐いていくナンシーの膣からは、ツルンッと赤ちゃんが出てくる。それを受け止めた私はへその緒を二か所縛り、その間を切断する。

 荒い呼吸のナンシーの健康状態を医師が確認している間、私は赤ちゃんを布で包んで鼻や口にたまった内容物を拭き取る。その瞬間、分娩室にはうぎゃーっと産声が響き渡り、その場にいた人間全員が歓声をあげた。

「ナンシー、本当に頑張ったわね」

 その胸に赤ちゃんを乗せると、ナンシーはそっと抱きしめる。

「ありがとうございます……わあ、小さい。初めまして、赤ちゃん。これから、どうぞよろしくねっ」

 赤ちゃんの手を握ったナンシーの目は潤み、次第に涙がこぼれ落ちた。
 旦那さんはナンシーと我が子に頬を寄せて、「可愛いな、小さいな、よく頑張ったな」と矢継ぎ早に感想を告げて笑う。

 それを見届けた私はダガロフさんと一緒に休憩に入った。
 ナンシーが落ち着いたら授乳の指導をするのですぐに戻ることになるが、私は昼間にリアさんと散歩をした施療院の前にやってくる。

「んーっ、疲れたわ」

 両手を広げて伸びをしつつ、夜の空気を胸いっぱいに吸い込んでいるとダガロフさんのしみじみとした呟きが隣から聞こえてくる。

「でも、心地いい疲労感ですね」

 私はその通りだな、と夜空を見上げた。

「私、母子看護の経験はほとんどなかったので、今回はちょっぴり自信がなかったんです」

「え、そうなんですか? 俺にはいつも通り堂々としているように見えました」

 顔に驚愕の色を浮かべたダガロフさんに、私は「それなら作戦成功です」と笑う。

「私がおどおどしたらお母さんたちが不安になると思ったので、そう振る舞ってたんです。でも、痛くても苦しくてもああやって耐えて命を生み出して、寝れなくても不安でも我が子のために成長しようとするお母さんたちを見てたら……」

 私は自分の両方の手のひらを見つめて、この施療院で受け止めてきた赤ちゃんたちの体温や重さ、匂いを思い出す。

「考えて考えて、なんとしても彼女たちの力にならないとって思いました」

「女性は守らねばならない存在とばかり思っていましたが、若菜さんやここにいる母親の姿を見て考え方が変わりました。子をなせるのは女性だけですし、俺たち男よりもずっと強い」

 そういうふうに考えられるダガロフさんは、子供ができたらいいお父さんになりそうだ。現に月光十字軍の騎士や兵たちには師である以上に親のように慕われている。

「ふふっ、ダガロフさんのお嫁さんは幸せ者ですね」

「えっ、急になんの話です?」

「ダガロフさんだって、いつかは所帯を持つでしょう? そのときの光景が想像つきます」

「え……いや、自分にはまだ先の話です。シェイド王子の即位も見届けなければなりませんし!」

「わかりませんよ? 恋は突然にやってくるものですから。では、私は先に中に戻りますね。ナンシーの授乳の準備をしなくちゃいけないので」

 大きな体躯で赤面しながら慌てふためくダガロフさんが可愛らしくて、私はくすくす笑いながら踵を返す。背後から「若菜さん!?」とダガロフさんの動揺が滲んだ叫びが聞こえてきて、私はついに吹きだしてしまうのだった。




 施療院の中に戻ると、出生後三十分以内には授乳をさせなければいけないため、私はナンシーに赤ちゃんの抱き方や乳頭の咥えさせかたを指導した。

 本当なら授乳で飲み込んだ空気を吐き出させるためにゲップをさせなければならないのだが、ナンシーはお産の疲労が強かったので代わりに私がすることになった。

「たくさん飲んで、偉かったわね」

 私は赤ちゃんを一時的に預かる新生児室にいた。
 赤ちゃんの突然死で多い添い寝の窒息死を予防するために夜は必ずここで預かり、他にもお母さんがきちんと睡眠や休息をとれるようにと作った部屋だ。

「無事に生まれてきてくれてありがとう。お父さんとお母さんのこと、その笑顔でたくさん幸せにしてあげてね」

 赤ちゃんを縦抱きにして背中をさすっていると、ふいに物音がした。赤ちゃんを抱えたまま音が聞こえた戸口に身体を向けると、そこにはお互い復興支援に追われていたため、数週間ぶりに見るシェイドの姿があった。

「若菜の祝福を受けたその子は、きっと出会った人間全てに幸せを運ぶだろうな」
 
 私が「えっ」と驚いて固まっているうちに、目の前まで歩いてきたシェイドは新生児室の赤ちゃんたちを眺めて目を細める。

「あのようなことがあったのに、このアストリアではこんなにも新しい命が誕生しているのだな」

 シェイドの言う〝あのようなこと〟が意味するのは、レジスタンスにこの国が乗っ取られた事件を指しているのだろう。

 城が焼け落ち、国王が崩御されたあとでもアストリアの地ではこうして変わらず命が生まれている。休んでいる暇などないのだと、この子たちを見ていると発破をかけられる気分になる。

「シェイド、私……ここにきて改めて気づかされたことがたくさんあったわ。私の仕事は命を救うだけじゃないのよ。救ったあとも、その命が健やかであるように関わっていかなきゃいけないんだって学んだの」

 お母さんの不安に寄り添いながら、私は母子ともに心も身体も健康であるためには育児を続けられるような環境を作る必要があると知った。それは施療院に留まらず町全体で連携して、お母さんと子供がどこに住んでいても助けを求められるようにだ。