「――な、どうしたの!?」

 一気に視線が高くなり、私はシェイドの首に腕を回して落ちないようにしがみつく。至近距離で目が合うと、彼はため息をついた。

「気もそぞろのようだからな。目を離した隙に火に巻かれていた、なんてことになったら俺は自分を許せなくなる。ここは大人しく俺に運ばれてくれ」

 シェイドは私の返事を待たずに、勢いよくその場から駆け出した。人を抱えているというのに速度は私がひとりで走るよりも早い。

 月光十字軍の消火も間に合わず、城の中は火の海だった。
 シェイドを先頭にマオラ王女を抱えたローズさんとアスナさん、それからアージェやダガロフさんがあとに続く。

 煙が巻き、爆発で半壊した廊下を突き進んでいると、マオラ王女が「お父様は無事なの!?」と叫んだ。
 それに足を止めたシェイドは私を地面に降ろすと、後続の騎士たちに向き直る。

「俺はローズと共に国王の救助にあたる。ダガロフ、アージェ、アスナは先に城を出ろ。若菜は……」

 確認するように振り返ったシェイドに、私は即決する。

「城に残るあなたたちのほうが危険でしょう? すぐに手当てができるように、私もついて行くわ」

「そう言うと思っていた」

 満足げに頷いたシェイドに、私たちはそれぞれの目的地へと走る。
 遠くで火が爆ぜる音がして肌を熱風が撫でる。酸素が薄くなって呼吸が荒くなるけれど、必死にシェイドたちについて行った。

 そして、ようやく国王の寝室についた私たちは中へ足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。壁にかかっていたのだろう槍の装飾に背から貫かれ、国王はうつ伏せに倒れている。床に力なく伸びた手が戸口に向いているのを加味すると、恐らく逃げようとしたのだろう。 

 すでに絶滅していてもおかしくないほどの血が絨毯に染みついていて、ローズさんとマオラ王女は恐る恐るといった様子で父の元へと足を進めた。

「そんな……お父、様……?」

 崩れ落ちるようにして床に座り込んだマオラ王女は血だまりに沈む国王に手を伸ばして、微動だにしない肩に静かに触れる。

 その傍らにローズさんも腰を落としたとき、ぴくりと国王の手が動いた。シェイドとそばに駆け寄り、私は国王の手首で脈を計るが触知できなかったため、頸部で測り直す。

 心臓より遠い手首の動脈で脈が触れないとなると深刻な血圧低下が考えられ、行き着く先は心停止だ。 
 
「拍動が弱い……それに頸静脈が怒張してる」

 頸静脈の怒張――首の静脈が膨れているのは全身から心臓に向かう血液の交通渋滞が起こってる証拠だ。血管が詰まっているか、もしくは心臓が動けない状況にあるかのどちらかになる。
 槍が胸を貫いているところをみると、心臓の大血管を傷つけてしまったのだろう。

 血液が胸の中にたまって心臓を圧迫し、十分にポンプ機能を果たせなくなると心臓は血液を全身に送り出せなくなる。心タンポナーデという状態が疑われた。

 その推測が正しければ本来ならここで血液を送り出そうと脈は早くなり呼吸も荒くなるはずだが、国王の脈が弱く意識がないことを考えると、すでに治療が適応できる時期は過ぎている。

 この世界には溜まった血液を出すために心嚢に穴を開けることも、損傷した大血管や心臓を補修する手術も処置もできない。出血でショック状態にある国王を救うのは不可能だ。

「ごめんなさい。国王は……助けられないわ」

 私は首を横に振って脈をとっていた手を離すと、絶命寸前の国王を前に呆然としている兄妹へ向き直る。

「心臓はじきに止まるわ。届くかどうかは断言できないけれど、息絶えるその瞬間まで人間の聴力は残ると言われているの。それまでに伝えたいことは全部伝えて? 国王にもあなたたちにも残された時間は少ないから」
 
 じきにここは炎に包まれるか、崩れ落ちるかのどちらかだ。それが先か国王が息絶えるのが先か、私たちは紙一重の状況にいる。限られた時間だけれど、後悔はしてほしくなかった。

 私の言葉を聞いたマオラ王女は両手で顔を覆って泣き出したが、ローズさんは覚悟を決めたのだろう。固く目を閉じて意識がない国王に話しかける。

「父上、これからはマオラがアストリアを導く。だから安心して眠ってくれ」

 ローズさんの声が部屋に響いたとき、信じられないことに国王が目を開けた。いつ息絶えてもおかしくない状況だったというのに、まさに奇跡だった。

 ローズさんとマオラ王女はとっさに国王の手を握る。その体温を感じたのか、国王の瞳から涙がひとしずくこぼれ落ちていく。

「バン……すまな、かった。マオラ、この国を……頼……む……」

 一瞬だけ意識を取り戻した国王は最後の力を振り絞るように掠れた声でそう言い残して、再び瞼を閉じる。国王が息を引き取るのを見届けたローズさんはマオラ王女の手を引いて、立ち上がった。

「行くわよ、あたしたちにはやることがあるでしょ」

「お兄様……ええ、託された国を導かなくては」

 涙を拭ってローズさんに頷いて見せたマオラ王女に、シェイドは「行くぞ」と促す。

 こうして、無事に外へ脱出することに成功した私たちは赤く燃える城を眺めながら、各々の使命に思いを馳せたのだった。