「ほら、行くよ」
僕は『海』をまじまじと見つめる彼女の手を引き、その場を後にした。
黙っていたら彼女はきっと、永遠と絵画を見続けるだろう。
そんなことをしていたら、日が暮れてしまう。

階段を、彼女のペースに合わせてゆっくりと降りていく。
きらきらとした目の彼女が、隣に、すぐ近くにいる。
彼女に見惚れていると、彼女がバランスを崩して階段から落ちそうになった。
「おおっと、危ない!」
僕は彼女をしっかりと抱きとめた。
「ご、ごめん…!」
困ったような顔で誤っていたと思ったら、彼女はいつの間にか
へへへ、と舌をペロッと出して笑っていた。
「危ないだろ?しっかり足元見ないと」
「ごめんね…ひろくんのこと見てたら、階段踏み外しそうに…」
「転んで怪我でもしたら大変だろ?気を付けてよ」
「うん、気を付ける。でもね、ひろくんに抱きとめられたとき、
すごくどきどきした。男の人の、逞しい腕の温もりを感じたの…」
彼女は目を逸らした。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ?転んで膝を擦りむいたらどうするんだ。
それに、転んで腹部を強打して見ろ。大変なことになるぞ」
僕は彼女の肩をがっしりと掴んだ。
「うん…心配してくれてありがとう。ごめんね、気を付ける」
彼女は肩をすぼめた。

彼女は以前道で転倒し、その際に腹部を強打した結果、良好だった体調は一変。
悪化の一途を辿り、腸から出血。激しい腹痛に悩まされたという。
だからこそ、油断は禁物なのだ。
他の人にはちょっとしたことでも、彼女にとっては致命傷にもなりかねない。
それほどまでに、細心の注意を払わなければいけないのだ。
なにしろ、予測不可能な病魔(やから)だからな。何かあってからでは、遅いのだ。
「ひろくん…ごめんねぇ…」
彼女は、親に叱られた子供のようにしょんぼりとしていた。

―保護欲をそそられる。守りたくなる衝動に駆られるのは、心愛ちゃんだから。
大好きな彼女だからこそ、何があっても全力で守りたいと言う気持ちになる。
保護欲をわざとそそるように仕向けているのだろうか、と思ってしまう。
しかし、この真っ直ぐな目を見れば一目瞭然。
『計算高い女』には程遠いんだよな。
寧ろ、『計算高く』ない。計算するどころか、計算すらしない。
つまり、鈍感で能天気で、所謂天然。そう、ふわふわ癒し系。
まるで小動物みたい。例えるなら…白兎かな。

「ごめんね、ひろく~んっ」
今にも涙が零れ落ちそうになるほど目を潤ませる彼女に、僕が勝てるわけがない。
彼女にはいつも甘いんだ、僕は。
「許しー」
彼女の言葉を遮るように、僕は彼女を抱き締めた。
「許してる」
「本当?」
本当だよ、と僕が笑って言うと、彼女はすぐに笑顔に戻った。
窓から差し込む陽の光が、彼女の顔を黄色のベールで包み込む。
眩しい。彼女は陽の光がよく似合う。
僕の頭の中には、彼女=太陽の方程式が既に確立している。
「よかった」
彼女は微笑んで、再びゆっくりと僕と階段を降りていく。
「楽しかったね」
「うん。すーっごく、楽しかった!」
彼女が大きく両手を広げて言った。
「子供みたいな言い方だな」
「うう…別にいいでしょ!」
彼女は、自分の無邪気(こどもっぽ)さを気にしているようだ。
彼女のそういうところがまた、僕は好きなのに。
そんなこと、気にする必要なんてないんだよ、心愛ちゃん。
君は、そのままでいいんだから。
いつまでも変わらずに、そのまま笑っていてくれ。
ただし、僕の隣でね。