届け、響け、広がれ。

今は7月の夏休み直前。夏休みに入ったら、コンクールがある。今回のコンクールの課題曲はアラベスク第1番。よく枕のCMとかに使われてる。
流水のごとく流れるような曲だ。重いフレーズはそれほどなく、ゆったりとした曲が得意な私には得意な分野だ。
おこがましくも、しばけん君にアドバイスを貰いたいなぁなんて思いながら今日も音楽室に来た。
私の高校の音楽室は本校舎とは離れていて、渡り廊下でつながっているので、音楽の教科以外では誰も近づかないような少しひっそりとしたところに立っている。
学校には珍しくも吹奏楽部だとかの音楽系の部活がないので、余計誰も訪れず私には都合がいい。
音楽室の扉を開けた時、中から風が吹いたかのような、空気が変わったかのような感じがした。
「今日も来たのかよ。」
私に気づくと同時にすぐにピアノをやめてしまったが、彼は少しも残念そうにせずに続けた。
「今日は何を弾くんだ?」
「アラベスク。」
「コンクールに出るのか?」
彼はコンクールのことも知っているようで、私は少し驚いた。
「うん。なんでしばけん君がコンクールのこと知ってるの?」
彼はにやっと笑って言った。
「審査員として呼ばれてるから。」
「……」
フリーズした。え⁉︎審査員⁉︎声にならない声が出そうになったけれども、それを飲み込んだらあることを思い出し、少し焦って言った。
「あの…あのね、今日、しばけん君にそのコンクールのアドバイスが貰えないかなって思って来たんだけど…あ、無理だったら全然大丈夫っ」
しばけん君が審査員だとしたら、審査するはずのコンクールに出る私に教える事は禁止されているのではないかと思ったのだ。
しばけん君が少し考えるような顔をしたので、やっぱり無理かなぁと思った時、ピアノに座ったままの彼が私を見上げるようにして言った。
「規定に審査員は誰かにピアノを教えてはならないなんて書いてなかったから大丈夫だろ。審査基準を教えるなとは書いてあったけど。まぁ、審査基準なんて比較なんだから教えようがないんだけどな。」
「ってことは…?」
「教えるっつてんだよ。」
「あ、ありがとう!本当に助かる、!
しばけん君が先生なんて百人力…いや
百万人力だよ!」
バカなんじゃないか?なんて言いながら私にピアノを譲ってくれるあたり、教えてくれることは迷惑そうではなさそうだ。
「じゃあ、弾いて。」
「はい先生!」
「その先生ってのやめろ」
「はい先せ…じゃなくてしばけん君!」
そんなやりとりをした後、ふぅと息をついて目を閉じた。目を開いた後はもう私はいない。音の世界だからだ。邪魔にならないようにひっそりと息を潜めめる。盛り上がるところはドキドキするし、私も盛り上がるけれどそれも音の邪魔にならないように、出来るだけひっそりと盛り上がる。音が思いっきり盛り上がってる世界に私はいない。
そんな感じで弾き終わった。するとしばけん君が閉じていた目を開いて私を見ると、まっすぐな視線で私に聞いた。
「音はいい。音が好きなように、自由に広がってる感じがある。だけど…」
「だけど…?」
「お前の気持ちが伝わらない。お前弾くときに何も思ってないのか?」
弾くときに何かを思うなんて考えもしなかった。思っているとするならば音のことだ。
「音…のことは考えてる。」
しばけん君は髪をぐしゃぐしゃっとしながら言った。
「あー、…んっと……そうじゃなくて、お前自身が何かを考えてるかってことだ。例えば、音を届けたい人がいるならその人をとか、」
ふっと思い浮かびかけた人がきちんと像になる前に、しばけん君が口を開いた。
「音のことを考えるのは大前提だ。ピアニストとして、音のことを考えなければ失格。だけどな、音のことを考えるのと同じくらい、自分の気持ちを音に乗せるって感覚も大事だぞ。」
「気持ち…?」
「そう。気持ち。怒りの気持ちでも良い。憎しみでも良い。恋情でも良い。なんでも良い。それを音に乗せるんだ。」
「乗せる…。」
一人で呟くようにして私は言った。今まで、音の世界だから私は必要がないものだと思っていた。音が自由に響き渡るように、音の自由に動けるように。
だけどしばけん君はそれだけでは足りないという。ある程度弾けるようになってから今まで、音に関して誰かに注意されたことがなく、頭の中でどうしたらしばけん君の言う音に気持ちを乗せることが出来るのだろうかと考え、ごちゃごちゃになりかけてきた時、ピアノの音が一つ聞こえた。
ふと顔を上げるとしばけん君がピアノの前に座り、こっちを見ていた。
「聞いとけ。お前を想って、お前への想いを音に乗せてやる。これが気持ちを乗せるってことだ。」
散乱している頭の中に響いてきたのはチューリップだった。いや、ただのチューリップではなかったけれど。
2回目の繰り返しの時に少し盛り上がり、5回目の盛り上がりを過ぎたあたりで原曲がなにかを忘れてしまう程だった。右手の和音が響き渡り、それを引き立てるように左手が動く。
終わったことにも気づかないくらい熱中していた私にしばけん君は静かに言った。
「お前のためのチューリップ変奏曲だ。」
意味もわからず、涙が溢れた。なんでこんな風に弾けないのだろう。こんな風に誰かを感動させられるピアノを弾くことが、なぜ私にはできないのだろう。そんな無力感に苛まれた。
急に泣き出した私にしばけん君は驚いた顔をした。
「な、なんで泣いてるんだ」
「……分からない…」
泣くなって。
そう言って弾き始めたのは慰めのエチュード。その音が優し過ぎて、余計に私は涙を流した。