ハナノユメ



毎週届く母からの手紙は思春期の少女の日記のような内容で、刺繍の入った小さな布切れがいつも同封されていた。煌星はその手紙に返事を出したことはなかった。それどころか入学してから一度も、家には帰っていなかった。
煌星は壁一面に広げられたタペストリーの前に、砂をかむような表情で立っていた。
 遠目に見れば一枚の絵のようなタペストリーは刺繍で出来ていた。それはルーセ王立学校を崖下の海岸から描いた作品で、夕日のさす海原と、徐々に色合いが変わってゆく空が繊細に表現されており、崖の上に建つおどろおどろしい砦のような古城がおとぎの城のように見える大作だった。
一糸一糸丁寧に縫われたそれは、どれほどの時間と糸が消費されたのか、煌星には想像もつかなかった。回廊奥の壁一面、立派な額縁におさまっているタペストリーは、煌星の母が学生時代に手掛けた作品だ。それには祝福が込められ、魂を込めて幾重にも幾重にも縫われ、見たものに黒海の夕暮れの夢を魅せたらしい。祝福の効用は永遠には続かない。力を失ったそれはただ壁を彩っていた。
母は血筋により強い祝福の力を持っていた。伝統模様にとらわれないいくつもの図案を考案しているし、このタペストリーのように祝福の込められた母の作品は、美術館にも所蔵されている。手紙と共に同封されている刺繍にも、祝福がこめられているだろう。
 煌星は手紙を丸めると、無造作にポケットに突っ込んだ。手紙を読みながら歩いていたら、無意識のうちにこのタペストリーの前に来ていたことを苦々しく思った。
ふと顔を上げると、同じクラスの悠木が立っていた。
「煌星、こんなところで何しているの? 次は祝福学だよ」
「ん、そうだったな、行くよ」
 悠木と連れ立って教室まで歩いた。悠木は人当たりがよくおっとりとした、線が細くふくふくとした頬を持つ中性的な少年だ。入学したころから、煌星とはラシェッドと共に仲が良い。二人で廊下を歩いていると、悠木がふと話し始めた。
「祝福って何だろう。祝福学の授業は難しく定義してあるけれど。考えなくても既にあるものに、疑問を持ってみるとそのものが何なのかよくわからないね。煌星は何だと思う?」
 悠木はラシェッドと違って、抽象的なことを考えるふわふわしたところがある。煌星はそれに付き合って、考えてみることが意外と好きだった。
「祈り、かな。または願い」
「なるほど。真摯に祈られたそれは、物や人に作用する。媒体が人を感動させるものであればより強く作用する。ラシェッドみたいに、舞踊に祝福をのせる人は、単調な動きを幾重にも幾重にも重ねて、暗示をかけるように祝福する。僕ら音楽にのせる輩は、膨大な音の重なりで。書を書くものはその一文字一文字を重ねて。それは完成された芸術であるほど人は強く暗示にかかる。だけどそうしたら、祝福は本当に存在しているのかな? 僕らがそう思い込んでいるだけで、本当にただの暗示だったら?」
「物に作用する祝福は目に見えやすいんじゃないか。例えば、厩舎の馬たちはみな落下防止の刺繍の入った蔵を付けられているし、より早く走るようにと祝福されうたれた蹄鉄が打ち付けられている」
「だけどそれも、劇的に変わるわけではない。たまに本当に強い祝福を持った人もいるけれど、今はそんな人も少ないからね。祝福は代が変わるごとに少しずつ少しずつ、弱くなっていっている。温暖化が進むように。祝福の弱体化はすなわち血の劣化、それを食い止めるためにこの国の人々は血筋を重要視しているけど、遺伝子を弱くしていくよね。近親婚を繰り返して滅びたハプスブルク家しかり。世界に散らばっていた祝福持つ人々を始祖がこの地に導いてから幾百年、ゆっくりとルーセは滅びゆく運命なのかもしれないね」
 表情が乏しくいつもより鬱屈とした様子に気づいて、煌星は悠木が心配になった。
「どうしたんだ、悠木、暗いぞ」
 言って、母からの手紙に自分も気分が沈んでいたことに気づいた。
「ラシェッドの馬鹿話でも聞かなきゃな」
 ラシェッドはいつも底抜けに明るい。良くも悪くも周囲を巻き込む、台風の目のような、生命力があった。煌星はそれを眩しくも尊くも感じていた。煌星には持ちえないものだったからだ。
 それか、あのピアノ。初めて聞いたあの時も、確か母からの手紙を読んでいた。煌星は、小松の弾くピアノの音を思い出した。ラシェッドの秘密の練習場所で練習を眺めていたのだけれど、暇になって散歩がてら歩いていたら、登りやすそうな樹をみつけて、登ってみた。届いてからまだ読んでいなかった手紙をひらいた。そうしたらあのピアノが聞こえてきたのだ。
 はじめは聞くともなしに手紙を読んでいたのだけれど、その調べはすっと煌星の心の隙間に入り込んできた。音叉のように骨の芯を揺さぶられたようだった。不覚にも手紙の上に一粒涙がこぼれてはじめて、ピアノの弾き手がかなりの実力者で、しかも意図せず祝福を使っているのかもしれないと気付いた。より感情を揺さぶるように。
ピアノを弾いていた人物はすぐわかった。柳井小松。同じ学年で、優秀なピアニストだとは聞いていたけれど、こういうタイプの演奏者だとは思わず、興味をひかれた。またピアノが聞きたくてよくあの場所で時間をつぶした。