ハナノユメ

「ご、ごめん煌星。気づかなかった」
「まあいいけどさ」
「あの、お二人さん?」
 煌星が花の肩から手をどけ、振り返ると、ユリアがにこやかにこちらを見ていた。面白がっている。
「お取り込み中悪いけど、先に部屋戻っているわ。じゃあね」
「え? ちょっとユリア!」
 呼び止める間もなくラシェッドとユリアも消えてしまった。ユリアは面倒見がいいけれど、少しお節介なのと、思い込みで行動するところが、玉に傷かもしれない、と花は思う。ホールにふたり残された花と煌星は目を見交わした。どうやら、作戦の失敗にお互い気づいているらしい。苦笑いがもれる。
「どこからおかしくなったと思う?」
「なんかもう最初っからだめだよね」
「反省会でもするか」
「反省会? どこで」
「決まってんだろ」
 樫の木の上は風通しもよく、二人で乗っても余裕があるほど大きくてどっしりしている。ふたりで今日のことについて話していると、なんだか居心地が良くてゆらゆら揺れている気分になってきた。ゆりかごのように。日差しの弱まった夕暮れの風ほど優しいものはない。あのオレンジほどあたたかいものはない。あの日のように美しいトロイメライの旋律は聞こえてこないけれど、風に乗ってやわらかなメロディが聞こえてくる気がした。
「花、ちょっと聞いてんのかよ、花?」
 煌星の声が遠くから聞こえる。それすらも心地よい。変な誤解もあるけれど、煌星との散策は楽しかったし、ラシェッドとは話せなかったけれど間近で見ることができて素敵な時間だったし、なんだかとても気分が良かった。
「ちょ、おい、俺にやってどうすんだよ! 花?」
 煌星がそんなようなことを叫んだ気がする。けれど、かくん、と首が横に倒れたら最後、花はもう夢の中だった。丁度良く柔かいものにもたれかかって眠ってしまった。
 次に花が意識を取り戻すのは、夜もとっぷり暮れたころ。夜風が寒くなってきて、身じろぎをしたらバランスを崩しそうになって目が覚めた。すぐそばには煌星の寝顔。花は恥ずかしくなってすぐに煌星から離れる。木から落ちそうになったせいか、花の心臓は階段を踏み外したかのようにドキドキしていた。もう頭上には空の星が輝き始めている。夕食を食べ損ねたかもしれない。心を落ち着かせると花は、そっと煌星をゆすって、起こした。


 煌星と別れて女子寮のホールへ戻ると、小松が待っていた。石の壁に灯りがともっていたけれど薄暗く、小松の影が細く長く伸びている。花は慌てて駆け寄る。静かなホールに足音が反響した。手元だけ灯りをつけて、小松はソファに座って本を開いていたけれど、眺めている場所は本から少しずれているようだ。
「遅くなってごめんね」
 小松は、くせのない長い黒髪をふって振り返った。驚かせてしまったみたいだ。
「話って何かな? わたしも、朝、小松さんが言っていたこと、聞きたいと思っていたの」
 思案するように小松は花を見つめる。話そうか止めようか迷っているみたいだった。やがて意を決したように口を開いた。
「私は東の地の出身なの。知ってた?」
 花は、話が見えなかったけれど、兎角うなずいた。小松は立ち上がると、花に一歩一歩、近づいた。陰に隠れて、小松の表情は読めない。
「あなたと私はあまり似ていないわね。でも、どうだろう? ほかの人が見たら」
す、と腕が伸びて、冷たい指先が花の頬に触れた。花は思わず一歩下がり、後ろにあった観葉植物に躓いて尻もちをついてしまう。小松もしゃがみこみ、花の顔をのぞき込む。照らされた小松の顔は苦しげで、何かに抗いもがくような、思いつめた表情をしていたけれど、同時に迷子の子どものように泣き出しそうにも見えた。それは小松をより美しくみせていたから、花は立ち尽くして見つめることしかできなかった。
「私は孤児院で育てられたの。あまりいい暮らしとは言えなかったわね。でもほかの子と違って私には救いが二つあった。ひとつめは、ピアノね。ピアノを弾いている時だけが別の世界にいけて心休まる時だったから、おのずと上達したわ。ふたつめは、誰かわからないけれどずっと援助をしてくれる人がいたこと。だから、私に祝福の特別な才能があるとわかった時、この学校にも入学することができた。私は入学してから教授に取り入って、誰が私を学校に入れてくれたのか、誰が援助してくれていたのが調べたわ。きっと私の出生にかかわる人だったから。そうしたら、その人物は同学年の生徒の父親だった」
 小松は、もうわかるでしょう、と自嘲的に笑った。だけど花にはまだ小松の言うことがわからなかった。
「私を助けてくれていた人は、あなたの父よ。私はあなたの妹なの。半分だけ血のつながった、ね」
 花は、心当たりのないところに矢が飛んできて、ぽかりと口を開けたまま固まった。たっぷり時間をかけて小松が言ったことをのみこんで、押し出すように声を出した。
「本当に?」
「娘でもなければ、そんなことしないでしょう。私の母は私を生んだ後、きっと捨てられたのでしょうね。自害してる。あなたの父は、さすがに罪悪感が少しはあるのかしら、罪滅ぼしのために、自分の罪悪感を払拭するために私にお金を使っているのね」
「そんな」
「私はこの学校を卒業する前に自分の力で、ピアノで生きて行ける。そうしたらもうあなたの家には一切お世話にならないわ。だから、本当はあなたにも近寄るつもりはなかった」
 小松は何か勘違いしているんじゃないかと、花は思った。小松の言うことは突拍子もなく、花には到底信じられないことだった。しかし、花の今までの家族の思い出に、月をよぎってゆく薄雲のように影が差しこんできた。植え付けられた疑惑の種は、そっと芽吹き、花を不安にさせた。優しい父。大好きなお父さん。その父が、私の母を裏切り、小松の母を裏切り、小松を裏切った。そして花を欺いていただなんて、だけど信じられなかった。
「あなたが綺麗すぎて汚したくなった。何も知らない、愛されて育ってきた、心の綺麗なお嬢さん」
 花は、長年その大人びた静かな表情の下に、暗く激しい怒りをおさえていた小松の、自分への敵意をはじめて知った。それは胸騒ぎめいた黒い影となって、花に襲いかかってくるようだった。