十七
発表会の日の授業は午前中だけだったから、花は校庭へ出ることにした。ホールや女子寮へ戻って友達と話すのも億劫だったし、小松に会うのも気が引けた。ぼんやりするなら、誰にも話しかけられる心配のないところがいい。流れる人々を眺めながら、花は玄関ホールへと向かった。ダンスの最終リハーサルと衣装メイクの確認まで時間をつぶしていようと思ったのだ。
音楽室の前を通った時、何気なく教室をのぞいてみた。誰もいない教室にグランドピアノがぽつんとあった。
廊下の窓からは夕暮れの光が細長く影を落としている。小松はいつも何を考えながら弾いていたのかな、と思う。それとも、何も考えなくていいから、ピアノを弾いているのかな。オレンジと黒のコントラストを踏みしめながら、花は教室へ入った。
教室の中は夕陽の光でいっぱいだった。少し眩しいくらいに。
ピアノの近くまで行くと、カバーをめくってみた。黒い艶々としたグランドピアノが現われる。鏡のように自分の顔が映っていて、そっと手でなぞってみると予想よりもずっと滑らかだった。花は教室を見渡した。誰もいない。恐る恐る、ピアノの蓋を開けてみた。そっと、人差し指の腹で白い鍵盤を押してみる。
ポーン。
静かな広い教室に、間抜けな音が響いた。小松が弾いていたピアノの音色は、あんなに綺麗だったのに、花の音はなんだか間抜けに聞こえた。もう一度、今度は黒い鍵盤を押してみた。椅子に座ってみる。ピアノに触るのは久しぶりだった。決してピアノを弾くことは嫌いではなかった。花は、唯一自信をもって最後まで弾ける曲を弾いてみた。ショパンのノクターン。
ああ、やっぱり好きだ。と花は手を滑らしながら、想う。ピアノは好きだ。ピアノを弾いていると記憶にない母のぬくもりを感じるような気もする。だからずっとやってこれたのかもしれない。もっと真剣にやれば、小松みたいになれるのだろうか。ううん。やってみよう。もう一度、ピアノをやってみよう。ピアノから離れて、踊ってみて、ようやく花は、ピアノが自分にとってかけがえのないものだと気付いた。合わないからって、好きなことを止めることは無いのだ。
半分ほどまで弾いた時、ガラリ、とドアの開く音がして、花は驚いて手を止めた。
「煌星」
ひゅっと息を呑んだ。煌星は夕陽が眩しそうに眼を細めていた。
「あ、えーと、小松さんならいないよ」
しどろもどろになりながらそう言ったけど、煌星は何も言わずに、花のそばまで歩いてきた。すぐ傍まで歩いてきたけれど、花はピアノに挟まれて逃げることもできずに、どうしたらいいのかわからなくて頭がおかしくなりそうだった。
「小松さんはいないって」
「わかってるよ」
煌星は花のすぐ傍まで来ると、ピアノの上に手を置きながら、少し下唇を噛んで、やっぱり無表情だった。花は逃れるように、横にたじたじと移動したけれど、ピアノ用の椅子があってそれ以上進めなかった。
煌星は一体何しに来たんだろう。どうして、そんな顔でわたしを見つめるんだろう。煌星の視線が痛くて、痛くて、でも煌星は目を逸らさせてはくれなかった。
「煌星?」
沈黙に耐えられなくなって、恐る恐る呼びかけてみた。しばらく煌星は見つめていたけれど、急に視線を泳がすと、考えるようにぽつりと口を開いた。
「よく考えたんだ。でも、本当は、ずっとわかってたのかもしれない。わかんないけど。あの時、さ。花にキスした時。どうしてってお前、言っただろ。今ならわかるけど、あの時、俺、もしかしたらずっと、こうしたかったのかもしれないって思ったんだ。だから。それでさっき、そう思ったって、気づいたんだ」
「……」
花は煌星の言ったことをぐるぐると思い返しながら、煌星を見上げていた。煌星は緊張した面持ちで見下ろしている。でも。でも、ねえ、煌星。
「ねえ、あの、よくわかんないよ」
真顔でそう言うと、煌星は少し頬を緩めた。煌星は何が言いたいのか、花の頭ではよく理解できなかった。煌星も、自分が何を言っていたのかわかっていないみたいだった。煌星が少し情けなさそうに笑ったので、花もつられて小さな笑いが漏れた。
「つまり、どういうこと? つまり、」
花は色んなところに視線を泳がしながら、最後は煌星を見上げて、言った。
「何しに、来たの?」
「花とキスしに」
花は思わず後ろ手に鍵盤に手を突いた。静かな教室に、不協和音が響いた。
残響が消えるころ、我に返った。いつのまにか煌星は、触れ合えるぐらいまで近くに迫っていた。ピアノに手をついて、花を閉じ込めるように煌星が近づいてくる。煌星とピアノに挟まれて、花に逃げ場は無い。すがるように見あげた先の、煌星の瞳に映っている花は、ひどく間抜けな表情だったと思う。しかし煌星の顔はいたって真面目で、冗談ではないと悟った花は、動転して、視線を泳がせながら意味の無いことを口走った。
「あ、煌星。あの、その、だって小松さんは」
「小松さん小松さんって、あのさ。俺と小松は何でもないんだけど」
「え?」
花は驚いて煌星を見上げ、煌星は今がチャンスとばかりに、花に覆い被さり、ゆっくりと顔を屈めた、その時、後ろでギイと扉が軋む音がした。煌星は煩わしそうに扉の方をみると、急に動きを止めた。それから、一瞬なんとも言えない表情をし、ぱっと花から離れた。後ろを振り返ってみると、扉から入ってきたのはアレックスだった。アレックスは花と煌星の姿を認めると、眩しそうに手をかざした。
「花、そろそろ準備。衣装の調整もあるし、リハーサルに間に合わないよ」
「あ、ごめん、すぐ行くよ」
ピアノにふたをして、花はアレックスを追いかける。途中で煌星に向き直った。煌星はほほ笑んでいた。すっかり、あの歯に物の挟まったようなはっきりしない煌星はいなくなっていた。今まっすぐに、花を見つめている。
「あの場所で待ってる。花、今日の発表が終わったら、来て」
花は頷くと、煌星に背を向けた。
発表会の日の授業は午前中だけだったから、花は校庭へ出ることにした。ホールや女子寮へ戻って友達と話すのも億劫だったし、小松に会うのも気が引けた。ぼんやりするなら、誰にも話しかけられる心配のないところがいい。流れる人々を眺めながら、花は玄関ホールへと向かった。ダンスの最終リハーサルと衣装メイクの確認まで時間をつぶしていようと思ったのだ。
音楽室の前を通った時、何気なく教室をのぞいてみた。誰もいない教室にグランドピアノがぽつんとあった。
廊下の窓からは夕暮れの光が細長く影を落としている。小松はいつも何を考えながら弾いていたのかな、と思う。それとも、何も考えなくていいから、ピアノを弾いているのかな。オレンジと黒のコントラストを踏みしめながら、花は教室へ入った。
教室の中は夕陽の光でいっぱいだった。少し眩しいくらいに。
ピアノの近くまで行くと、カバーをめくってみた。黒い艶々としたグランドピアノが現われる。鏡のように自分の顔が映っていて、そっと手でなぞってみると予想よりもずっと滑らかだった。花は教室を見渡した。誰もいない。恐る恐る、ピアノの蓋を開けてみた。そっと、人差し指の腹で白い鍵盤を押してみる。
ポーン。
静かな広い教室に、間抜けな音が響いた。小松が弾いていたピアノの音色は、あんなに綺麗だったのに、花の音はなんだか間抜けに聞こえた。もう一度、今度は黒い鍵盤を押してみた。椅子に座ってみる。ピアノに触るのは久しぶりだった。決してピアノを弾くことは嫌いではなかった。花は、唯一自信をもって最後まで弾ける曲を弾いてみた。ショパンのノクターン。
ああ、やっぱり好きだ。と花は手を滑らしながら、想う。ピアノは好きだ。ピアノを弾いていると記憶にない母のぬくもりを感じるような気もする。だからずっとやってこれたのかもしれない。もっと真剣にやれば、小松みたいになれるのだろうか。ううん。やってみよう。もう一度、ピアノをやってみよう。ピアノから離れて、踊ってみて、ようやく花は、ピアノが自分にとってかけがえのないものだと気付いた。合わないからって、好きなことを止めることは無いのだ。
半分ほどまで弾いた時、ガラリ、とドアの開く音がして、花は驚いて手を止めた。
「煌星」
ひゅっと息を呑んだ。煌星は夕陽が眩しそうに眼を細めていた。
「あ、えーと、小松さんならいないよ」
しどろもどろになりながらそう言ったけど、煌星は何も言わずに、花のそばまで歩いてきた。すぐ傍まで歩いてきたけれど、花はピアノに挟まれて逃げることもできずに、どうしたらいいのかわからなくて頭がおかしくなりそうだった。
「小松さんはいないって」
「わかってるよ」
煌星は花のすぐ傍まで来ると、ピアノの上に手を置きながら、少し下唇を噛んで、やっぱり無表情だった。花は逃れるように、横にたじたじと移動したけれど、ピアノ用の椅子があってそれ以上進めなかった。
煌星は一体何しに来たんだろう。どうして、そんな顔でわたしを見つめるんだろう。煌星の視線が痛くて、痛くて、でも煌星は目を逸らさせてはくれなかった。
「煌星?」
沈黙に耐えられなくなって、恐る恐る呼びかけてみた。しばらく煌星は見つめていたけれど、急に視線を泳がすと、考えるようにぽつりと口を開いた。
「よく考えたんだ。でも、本当は、ずっとわかってたのかもしれない。わかんないけど。あの時、さ。花にキスした時。どうしてってお前、言っただろ。今ならわかるけど、あの時、俺、もしかしたらずっと、こうしたかったのかもしれないって思ったんだ。だから。それでさっき、そう思ったって、気づいたんだ」
「……」
花は煌星の言ったことをぐるぐると思い返しながら、煌星を見上げていた。煌星は緊張した面持ちで見下ろしている。でも。でも、ねえ、煌星。
「ねえ、あの、よくわかんないよ」
真顔でそう言うと、煌星は少し頬を緩めた。煌星は何が言いたいのか、花の頭ではよく理解できなかった。煌星も、自分が何を言っていたのかわかっていないみたいだった。煌星が少し情けなさそうに笑ったので、花もつられて小さな笑いが漏れた。
「つまり、どういうこと? つまり、」
花は色んなところに視線を泳がしながら、最後は煌星を見上げて、言った。
「何しに、来たの?」
「花とキスしに」
花は思わず後ろ手に鍵盤に手を突いた。静かな教室に、不協和音が響いた。
残響が消えるころ、我に返った。いつのまにか煌星は、触れ合えるぐらいまで近くに迫っていた。ピアノに手をついて、花を閉じ込めるように煌星が近づいてくる。煌星とピアノに挟まれて、花に逃げ場は無い。すがるように見あげた先の、煌星の瞳に映っている花は、ひどく間抜けな表情だったと思う。しかし煌星の顔はいたって真面目で、冗談ではないと悟った花は、動転して、視線を泳がせながら意味の無いことを口走った。
「あ、煌星。あの、その、だって小松さんは」
「小松さん小松さんって、あのさ。俺と小松は何でもないんだけど」
「え?」
花は驚いて煌星を見上げ、煌星は今がチャンスとばかりに、花に覆い被さり、ゆっくりと顔を屈めた、その時、後ろでギイと扉が軋む音がした。煌星は煩わしそうに扉の方をみると、急に動きを止めた。それから、一瞬なんとも言えない表情をし、ぱっと花から離れた。後ろを振り返ってみると、扉から入ってきたのはアレックスだった。アレックスは花と煌星の姿を認めると、眩しそうに手をかざした。
「花、そろそろ準備。衣装の調整もあるし、リハーサルに間に合わないよ」
「あ、ごめん、すぐ行くよ」
ピアノにふたをして、花はアレックスを追いかける。途中で煌星に向き直った。煌星はほほ笑んでいた。すっかり、あの歯に物の挟まったようなはっきりしない煌星はいなくなっていた。今まっすぐに、花を見つめている。
「あの場所で待ってる。花、今日の発表が終わったら、来て」
花は頷くと、煌星に背を向けた。
