ハナノユメ

十六

 花の真摯な問いから逃げた自分を煌星は恥じていた。まったく男らしくない情けない所業だと自分を苛立たしく思い自信を喪失していた。しかし煌星には渦巻く感情と明らかになった出来事を整理する時間が必要で、それが花に対する自分の気持ちに見て見ぬふりをすることになった。
 煌星はつきつけられた現実、真実を未だに受け入れられず、どうしたらいいのかわからなかった。頭では理解しても感情がついていかなかった。そのままに、小松を呼び出した。その時一緒にいた花のことはどうしても見ることが出来なかった。
 煌星と小松は薄暗くひとけのない廊下を黙々と歩いていた。小松がしびれを切らして、後ろから声をかけてくる。
「いったいどこに連れて行くの?」
 小松の声は苛立たしげだった。しかし、煌星が目指している場所を察知すると、黙ってついてきた。石積みの階段がいつのまにか木造の階段になり、狭く勾配が急になって、登りきるとそこは塔のバルコニーへと続いていた。
 外に出ると冬の冷たい風が鼻先をくすぐる。黒海は色彩が失せ、灰色の風景が広がっていた。
「あの日、寮に居たっていうのは嘘だろう。君はあの場にいた」
 煌星が振り返ると、小松はじっと睨みつけるように煌星を見ていた。風が小松の長い髪と制服をはためかす。長く黒い髪が生き物のように筋になって風に乗っていた。顔にかかる髪を抑えようともせず小松は黙って立っていた。
「だけど制服を着て。中庭ではなくこの塔の上に」
 小松は微動だにせず、こちらを見つめ続けている。その顔は表情が読めなかった。煌星は続けた。
「君は花が見えているだろう」
 煌星とユリアには見えていて、ラシェッドと悠木には見えていなかった。煌星とユリアは忘れていたが、ラシェッドと悠木は知っていた。
「気づいているんだろう? 彼女が本当はもういないこと」
 小松の細い肩が震えた気がした。煌星は自分に言い聞かせるように口にした。今では煌星も思い出していた。
「花はここから落ちて死んだ。プラムの夜に」
 口に出したら、自分でも馬鹿げたことを言っている気になった。本当に、馬鹿げた勘違いだったらよかったのに。
 あの時、煌星は悠木の代わりに弦楽四重奏に入っていた。舞台の上で見上げた塔の上。落ちてくる生徒。塔の上の人影。まるで昔見た映画のワンシーンのようだ。それは今でだって記憶していたけれど、その人物が誰なのか、それだけ、いつのまにか忘れていた。忘れていた、としか言いようがなかった。小松はそこで初めて口を開いた。
「でも彼女はいるわ。あなたにも見えるんでしょう。一体あの子は何だというの? 亡霊だとでもいうの」
「亡霊? いいや、俺たちの考えは違う。彼女は祝福だ。偶然が重なって生まれた古の祝福。夢のような存在。あの日中庭にいた者、祝福された人々にしか見えない」
 小松は、そう、と頷いただけだった。
「どうして嘘をつく必要がある?」
「もっとはっきり言ったらどう? 彼女を落としたのか? ってね」
 小松のしなやかな獣のような瞳が怪しく光ったような気がして煌星は身を固くした。小松は煌星から視線をはずすと、小さなため息とともに話し始めた。
「あの子が死んだのを見たはずなのに、新学期が始まったらいつのまにかあの子が学校にいた。ちっとも違和感を感じなかった。自然にそこにいたの。私はあの子が死んだことを忘れていた。あなたも、そうなのね。みんなそう。でも私は気づいた。気づいたのは、はじめてあの子が話しかけてきた次の日の夜。あなたたちが街へ行って、帰ってきた日の夜。私はあの子を女子寮のホールで待っていた。あの子が憎いと、思いつめていた。どうしてこんなに違うのだろう、私は泥水すすってここまできたのに、あの子は汚れを知らぬまま。真っ白なハンカチみたいなあの子の心に嫉妬した。あの子が私の前で転んで、下からこちらを見上げた時。この感じ、前にも体験したって感じたの。そのあとで徐々に思い出した。あの子とここに来たこと」
 そこで一息入れると、小松は自嘲的に笑って煌星を見据えた。
「ここで何が起こったのか知りたいのでしょうね?」
 小松はバルコニーの手すりのすぐ前に立つ煌星に一歩一歩近づいてくる。
「私はあの子に特別なつながりを感じていた。どうして彼女とここに来たのか、まだ思い出せない。私が呼んだのかしら? きっと、あの子が何も知らないで過ごしているのが耐えられなかったのでしょうね。あの子は後ろに後ずさって、足を踏み外した。落ちてゆくあの子と目が合った。私たちはずっと見つめあってた。その時、より強く感じたの。あの子は私の半身。もう一人の私」
「不慮の事故? じゃあなぜ嘘をついていたんだ」
「どうかしら、先ほど言ったことは嘘かもしれない。私はあの子を塔のバルコニーまで追い詰めた。一歩一歩近づく。あの子はじりじりと後ろに下がってゆく。そうして私は手をかけた。こういうふうに」
 小松の冷たい指が蛇のように、する、と煌星ののど元に触れた。
「あの子は恐れと驚きの表情を浮かべて、私に落とされた。落ちてゆくあの子と目が合った。私たちはずっと見つめあっていた。その時強く感じたの。あの子は私の半身。もう一人の私」
 小松は挑戦的ともとれる笑みを煌星に向ける。
「どっちが本当だと思う?」
 煌星はのど元にかかる小松の手をはらった。
「そうよ、私にしかわからないことなの。私はやっていないって証明できない。あの子を憎く思っていたのは本当だもの。ねえ、彼女が夢では無かったらよかったのにね? 私たちは血のつながった姉妹。それを祝福された関係にできたのに。今がそれを証明してる。私あの子が嫌いじゃない」
 煌星は、いまだ小松の思惑をつかめずにいた。夢となった花と過ごしてゆくうちに、小松に渦巻いていた憎しみや嫉妬といった感情は溶けていったのだろうか。
「君が本当に憎むべきは花じゃない。君たちは異父姉妹だ。そして君は俺の妹だよ」
 小松は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「君たちの母、藍野千琴は古の祝福の持ち主だったのだと思う。ルーセの人々が失った強い祝福の力。それを藍野千琴は持っていた。その力に目を付けられて、花を生んだ後、黒川家に連れ去られた。そこで君を産んだ。藍野千琴は黒川家で死んでいる。何を想って死を選んだのか、今となってはわからない。藍野千琴が死んだあと、君は柳井の家に預けられたが、施設にやられたみたいだね」
 小松は黙って聞いていた。それから、やはり「そう」とつぶやいただけだった。それは自分ではどうにもならない環境を冷めた目で見続け、海に浮かぶ木の葉のように身を任せてきたことをうかがわせた。
「古の祝福……。私にもその力があると思う。いいえ、違うわね……私と花に、あった。母から受け継いでいたのね。ずっと感じていた。あの子とのつながり。私と花で、ひとつの祝福。花の力は眠っていたけれど、あの日開花したんだわ。花が祝福としてうまれたのは偶然なんかじゃない。落ちてゆく花と見つめあった時、あの時、私たちが生み出した」
 小松は中庭を覗き込んだ。
「あの子が落ちたのは私のせい。ここに連れてきた責任がある。あの子が消えてしまって、すべての人が祝福から覚めたら真実を話そうと思ってた。役人に話すわ。それでいいでしょう、あの悠木って子も」
「ああ。悠木は、真実を知りたいだけだ」
「花って意外とモテるのね」
 小松は煌星をしげしげとみつめて意味ありげに笑った。煌星は、小松に見透かされていることを苦々しく思ったが顔に出さないように努めた。
 その時、ボーン、ボーン、と鐘楼の鐘の音が聞こえた。もう一つの塔をみると、背の曲がった老人が鐘をついているのが見えた。老人はこちらを見ている。いや、煌星たちのいるバルコニーのすぐ下にある、何か、を見ていた。
「そうか」
 煌星は、はじかれたようにバルコニー下を覗き込んだ。
「君が無罪だってことを証明できるかもしれない」
「危ないわ!」
 小松に制服をつかまれて、手すりから乗り出していた体を起こし、煌星は顔を上げた。
「大時計だ」
「それがどうしたの?」
「鐘楼の鐘をつく用務員は、こちらの塔の大時計の時間を確認して鐘をついている。あのプラムの日、花が落ちた時、覚えているか。ちょうど六時だった。鐘が鳴っていた。あの老人が君たちを見ているかもしれない」
 小松もはっとして、それから鐘楼の方を見つめる。その目には期待がこめられていた。
「何の後ろ盾もなく、ひとりでピアノでやっていくには、スキャンダルを抱えては無理だと思っていた。もしあの人が見ていたら、疑いが晴れたら……」
 しかし小松は、首を振った。                                
「でも、いいのよ。花には未来がないのに、自分だけ、したいように幸せに生きていくなんて出来ない」
「花がそう望むと思うのか?」
 小松は笑って頭を振った。
「あの子、人がいいにもほどがあるでしょ。バカのつくお人よしよね」
「まあ、君が不幸ぶりたくても、俺は用務員に確認する。真実がわかるなら役人の前に出てもらう。君には悪いけれど」
 小松は眉をひそめて何か言いかけたが、しかし思い直したようで何も言わなかった。煌星は小松の横顔を見つめ、花に似ているところを探してみた。しかし見つからなかった。小松は花のことをもう一人の自分、半身だと言った。しかし煌星にとってはそうではないようだった。
 ふと小松が口を開いた。
「花は知らないのでしょう。自分が死んでいること。祝福にすぎない存在だということ」
「おそらく」
「時々見えない時がある。そろそろなのね」
 花が消える。それは変えられない。
 しばらく小松と煌星は、どこまでも広がる灰色の海と空を眺めていた。どのくらい時間が経っただろうか、小松と煌星は校舎の中へ戻ることにした。その時小松が言った言葉に、煌星は鳥肌が立つような気がした。
「お兄様、とでも呼んだほうがいいのかしら?」
「やめてくれ」
 この少女には確かに黒川の血が流れている、と煌星は思う。小松は悪戯をする子どものように笑ったが、しかし目は寂しげに煌星を見つめていた。花が消えてゆくことを小松は既に受け入れているようだった。しかし、煌星は、今初めて、抗えない運命を受け入れられなかった。
いつも失ってから気づく。母のことも。煌星は今はっきりと気づいていた。花が好きだ。だけど彼女はもういない。あの女の子は祝福そのもの。幾重にも奇跡のような祝福が重なってうまれた古の祝福。ゆめまぼろしなのだ。だけど、今は確かに存在して、感じて悩んで煌星の手の届くところにいる。あの日、塔から落ちた女の子。白玉木蓮の茂みに鈍い音とともに落ちてしまった不運な少女。あの日中庭にいた者にしか見えない夢の子。ひとり、またひとり、祝福から覚めて彼女が本当は死んでいることに気づく。そうしたら、きっと、彼女はいなくなってしまう。祝福は永遠には続かないから。