十五
まだ疎らにしか生徒のいないホール。眠たい目をこすりながら、朝食を食べに降りてゆくと、扉の前でばったりと煌星に出会ってしまった。煌星は一瞬ぎくりと固まって、花を見つめる。花は視線を逸らした。しかし、煌星はぶしつけに花を見つめ続けていた。
「……」
「……」
「あー」
煌星は目が合うと、気まずそうに視線を泳がせた。それから言葉を選ぶように唸ると、ちらりと見下ろした。恐る恐る煌星を見上げてみる。
「ちょっと歩くか」
なるべく煌星と目を合わせないようにして、黙って頷いた。
あの夜の後、たくさんの沈黙の後に、煌星は「戻るか」とひとこと言っただけだった。
花は煌星と歩きながら、あの夜のことを思い返した。戻ると言った後、煌星を見上げて、口を開こうとしたけれど、思いとどまり、黙って頷いた。煌星がゆっくり立ち上がり、花もそれに習う。
夜風の音が、やけに大きく響いていた。煌星は女子寮の前まで送ってくれた。花が窓から無事に入るのを確認すると、煌星はおやすみと言っただけで、花も、頷いただけだった。ほとんど何も話さずにそれぞれの寮へと戻った。
女子寮へとあがって行く気にもなれず、そのまま暫く煌星が去った窓の辺りを眺めていた。もやもやとしたものが胸の中にうずまく。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。小松のことも、考えた。煌星はどうしてあんなことをしたのだろう。
唇を触ってみたら、煌星の唇が意外と柔かかったことを思い出して、顔が熱くなった。明日から、どんな顔をして煌星に会えばいいんだろう。頭の中はぐるぐる、ぐるぐる、いっぱいで、もう何にもわかんない。けれど、夜が明けるころには、大分わたしの気持ちも落ち着いて、冷静に昨夜の出来事を考えることが出来た。
煌星はほんの出来心で、何の意味も無いのだ。
でも、きっと、花の気持ちには、気づいてしまった。
うっすらと外が明るくなってきた頃に、ようやく女子寮の自分のベッドへと戻った。数時間眠ろうと思ったけれど、目が冴えてしまって、眠りにつくことは出来なかった。胸が異様にどきどきとして、息苦しいくらいだった。
ごろごろと何度も寝返りを打ちながら、窓の外の光が増してゆく様子を眺めていた。ラシェッドと、煌星と、ユリアと、街へ行った日の朝のように。しかし花の気持ちは、あの日とは正反対に沈んでいた。煌星の笑った顔や、寂しそうな横顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、花の胸を締め付けた。
あれから数日、花はなるべく煌星と会わないように注意していたのだ。
「このあいだの、ことだけど」
花と煌星は回廊へと続く廊下を歩いた。冷たい廊下をゆっくりと歩きながら、煌星は搾り出すように言った。花は黙っていた。
「聞いてるか?」
「うん」
「この間の夜のことだけど」
「うん」
「あれは、その」
「うん」
「その、」
花は遂にいたたまれなくなって、立ち止まった。
「……だ、大丈夫だよ、心配しないで!」
俯きながら大きな声で言うと、煌星はきょとんとした顔をして、花を見下ろした。
「何もなかった。わたしも煌星も、寝ぼけていたんだよ、きっと。それか、不慮の事故だよ」
俯いたままで、一気に言った。煌星の口から、忘れて欲しい、とか、そうゆう言葉を聞きたくなかったのだ。その前に、自分から、何も無かったことにしてしまおうと思った。
けれど、煌星は、驚いたことに、眉を寄せて睨んできた。
「なんだよ、それ」
その冷たい言い様に、怯んでしまった。後ずさりしそうになって、言葉に詰まる。こんな反応は、予想していなかった。煌星はどうして怒っているのだろう。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「どうって」
「煌星は、あのキスが、不慮の事故じゃ、嫌なの?」
「……」
「どんなものだったら、よかったの?」
「……」
「……何か言ってよ、わかんない」
涙声になりそうになって、あわてて言葉を切って、何度も瞬きをした。こんなとこで泣いて、どうするんだ。煌星は暫く黙っていたけれど、苛々とした口調で答えた。
「ただ、お前が何でもないことみたいに言うから。ラシェッドの変わりなのかと思ったら、すごく腹が立ったんだ」
なんだって? 花は、信じられない気持ちで、煌星を見つめた。花の気持ちにすっかり気づいているのだと思っていたら、煌星がそんなことを思っていたなんて。ラシェッドの変わりだなんて、思っていたなんて、鈍いにもほどがあるんじゃないだろうか。
「違う!」
思わず必死に叫んでしまった。
「そんなんじゃないもん。わたしは、煌星だから」
煌星は、驚いているような、戸惑っているような顔だった。花はごくりと唾を飲み込んで、煌星の瞳を見つめる。心臓が破裂しそうで、声が震えていた。煌星だから、煌星が好きだから、キスしたんだよ。言ってしまえ、言ってしまえ、と頭の奥から声がする。けれど、すき、ただそれだけの言葉が、どうしても言えなかった。花は唇を噛み締めると、視線を落とした。
「煌星は、どうしてあんなことしたの」
「あれはお前が、……じゃあ、お前はなんでキスしたんだよ」
「それは」
「何だよ」
「煌星だって。煌星は、誰でも良かったんでしょう?」
「違う」
「違わないよ」
「そんなんじゃない」
「……」
「誰にでもあんなことしないよ」
「じゃあ、どうして?」
恐る恐る、煌星を見上げてみたけれど、煌星は視線から逃れるように、ふいっとそっぽを向いた。
「わかんない」
また痛い沈黙が訪れた。さっきから、そればかりだ。煌星の横顔を憎々し気に見つめた。居たたまれなくなって、何とか口を開こうとしたけれど、奥の方から、生徒達のざわめき声が聞こえてきて、花は思いとどまった。煌星をちらりと見ると、軽く頷いたので、花と煌星は気まずい沈黙のまま、来た道を戻った。後ろから生徒の楽しげな声が追いかけてくる。
もやもやとしたままで、一限目は煌星と同じ授業だった。ふたつ前、みっつ向こうのテーブルで、けだるそうに頬杖をついている煌星に、自然と目がいってしまう。真っ黒な髪の毛と、少しだけ見える横顔。
前まではあんなに近くにあったものが、今ではすごく遠い気がした。確かにふたり並んで歩いていたのに、向き合った途端に、全てがおかしくなってしまった。ふたりでラシェッドのことや小松さんについて話して笑ってた、あの頃が遠い昔のことのようだ。ずっとそんな日々が、続いていればよかったのに。あの日に戻れたらいいのに。どうして友達のままじゃ、駄目だったんだろう?
花は深い溜息をついて、ペンをくるくると弄んだ。ノートは真っ白、先生の話は左から右へ通り過ぎてゆく。窓の外を眺めてみたら、憎たらしいくらいの青だった。雲がゆっくりと流れてゆく。 この胸のもやもやも、煌星への気持ちも、同じように流れてしまえばいいのに。
その日の午前中はずっと、花は上の空で過ごした。
花と小松は、隣同士に座って昼食を食べていた。今日の昼食はトーストやバゲッドにデニッシュ、豚の血詰めウィンナーと野菜スープだった。花はぼんやりと、皮がぱりぱりとしたウィンナーをフォークにさしてかじりながら、大広間から疎らに移動する生徒を眺めていた。もうひとくちかじろうと思ったら、ウィンナーはぽろりとテーブルに落ちて、転がって、床に落下した。
「あ、」
「もう花、何やってるの。わたしの話、聞いてた?」
「え? えっと、ごめん、何だった?」
「……いいわ」
小松はため息混じりに言うと、花がお皿から落としたウィンナーを拾ってくれた。花はそれをまた無意識にフォークでさした。
「花、食べるの?ゴミついてるわよ」
「え? あ、ううん、食べない」
慌ててフォークを置いたけれど、どうして小松が素っ頓狂な声を上げたのかとか、どうしてフォークを置いたのかはよくわかっていなかった。
「もともと、ぼうっとしてるところがあったけど。どうしたの、花。最近ずっと上の空じゃない」
ぼんやりと小松の顔を見ると、小松は形の良い眉を少し寄せて、訝しげに見つめている。小松さんの唇って、口紅を塗っているわけでもないのに綺麗な色をしているなあ。煌星はこの唇に、キスをしたんだろうか。
「花、聞いてるの?」
「うん?」
「もういいわ」
小松は肩を竦めると、トーストをかじった。サクサクと美味しそうな音がするので、フォークはそのままに花もトーストに手を伸ばしてみた。けれど、手を伸ばそうとしたら、目の前に今一番気まずい人が視界に入ってきたので、思わず手を引っ込めてしまった。ぼんやりとしていた頭が覚醒したみたい。動転して何度も瞬きをしてしまった。煌星はテーブルに近づいてくると、花と小松のところに真っ直ぐやって来る。
「ちょっと、いい?」
煌星は花と目を合わせようとせず、小松に向かってそう言った。煌星が目を合わせようとしないのをいいことに、煌星をじっと見上げていた。無表情で何を考えているのかわからなかったけど、いつもより少し険しい顔だった、気がする。小松が頷くと、煌星は踵を返した。それだけ? と煌星と小松さんを交互に見つめたけれど、やっぱりそれだけだった。煌星が踵を返すときに、その時に少しだけ目が合ったような気もしたけれど、気のせいかもしれない。煌星は何も反応せずに行ってしまった。
「花、ちょっとごめん。先に授業へ行ってて」
小松はナプキンで口元を上品に拭きながらそう言うと、ゆっくりとした動作で席を立って、煌星の後について食堂を出て行った。二人の姿が消えてしまってからも、花はぼんやりと食堂の入り口を眺めていた。
次の授業に小松と煌星はやってこなかった。隣のテーブルの女の子達が、そのことについて下品な噂話をしていたけれど、でも、煌星と小松はいったい何を話しているのだろう。気になって、知りたいような、知りたくないような。花は気を紛らわせるように、ノートをとることに専念した。終礼まで、小松と煌星が来ないかと気をもんだけれど、小松と煌星のことだから、そんな目立つことはしないだろう。やっぱり、二人ともその授業には現われなかった。
授業後、生徒たちは教卓へレポートを提出しながら教室を出た。花はぼんやりしていたので、先生がレポートを集め、教室から出ていくところでようやく気付いた。慌てて先生を追いかけるが、花が呼び止めても先生は一向に気づかず、花を無視して廊下へ出てしまった。不思議に思って花は一度立ち止まる。もしかして授業中に花が上の空だったからレポートを受け取ってもらえなかったのかもしれないと思った。しかし、レポートを受け取ってもらえなければ花の成績は進級できるか怪しい。花は気を取り直して、先生に駆け寄った。しかし、やはり先生は花のことがまるで見えないように、通り過ぎて行った。花は状況が上手く呑み込めず、先生の後ろ姿を呆然と見送った。
わたしが、見えていないようだった。
花はそんなわけないと頭を振った。そんな馬鹿なことがあるわけがない。
近くの教室から、授業から解放された生徒たちが出てきた。花は生徒の波にのまれたが、そこでまた違和感を覚えた。生徒たちは花に目もくれない。流れの真ん中に花がいるのに、一目もくれず、過ぎてゆく。花がいくらじっと見ても、まるで気にしない。花は恐ろしくなった。まるで自分がこの場にいないような気になった。右を見ても、左を見ても、知らない顔。花は急に足場が崩れてゆくような不安に襲われた。みんなどうしてしまったのだろう? それとも自分がおかしいのだろうか?
まだ疎らにしか生徒のいないホール。眠たい目をこすりながら、朝食を食べに降りてゆくと、扉の前でばったりと煌星に出会ってしまった。煌星は一瞬ぎくりと固まって、花を見つめる。花は視線を逸らした。しかし、煌星はぶしつけに花を見つめ続けていた。
「……」
「……」
「あー」
煌星は目が合うと、気まずそうに視線を泳がせた。それから言葉を選ぶように唸ると、ちらりと見下ろした。恐る恐る煌星を見上げてみる。
「ちょっと歩くか」
なるべく煌星と目を合わせないようにして、黙って頷いた。
あの夜の後、たくさんの沈黙の後に、煌星は「戻るか」とひとこと言っただけだった。
花は煌星と歩きながら、あの夜のことを思い返した。戻ると言った後、煌星を見上げて、口を開こうとしたけれど、思いとどまり、黙って頷いた。煌星がゆっくり立ち上がり、花もそれに習う。
夜風の音が、やけに大きく響いていた。煌星は女子寮の前まで送ってくれた。花が窓から無事に入るのを確認すると、煌星はおやすみと言っただけで、花も、頷いただけだった。ほとんど何も話さずにそれぞれの寮へと戻った。
女子寮へとあがって行く気にもなれず、そのまま暫く煌星が去った窓の辺りを眺めていた。もやもやとしたものが胸の中にうずまく。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。小松のことも、考えた。煌星はどうしてあんなことをしたのだろう。
唇を触ってみたら、煌星の唇が意外と柔かかったことを思い出して、顔が熱くなった。明日から、どんな顔をして煌星に会えばいいんだろう。頭の中はぐるぐる、ぐるぐる、いっぱいで、もう何にもわかんない。けれど、夜が明けるころには、大分わたしの気持ちも落ち着いて、冷静に昨夜の出来事を考えることが出来た。
煌星はほんの出来心で、何の意味も無いのだ。
でも、きっと、花の気持ちには、気づいてしまった。
うっすらと外が明るくなってきた頃に、ようやく女子寮の自分のベッドへと戻った。数時間眠ろうと思ったけれど、目が冴えてしまって、眠りにつくことは出来なかった。胸が異様にどきどきとして、息苦しいくらいだった。
ごろごろと何度も寝返りを打ちながら、窓の外の光が増してゆく様子を眺めていた。ラシェッドと、煌星と、ユリアと、街へ行った日の朝のように。しかし花の気持ちは、あの日とは正反対に沈んでいた。煌星の笑った顔や、寂しそうな横顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、花の胸を締め付けた。
あれから数日、花はなるべく煌星と会わないように注意していたのだ。
「このあいだの、ことだけど」
花と煌星は回廊へと続く廊下を歩いた。冷たい廊下をゆっくりと歩きながら、煌星は搾り出すように言った。花は黙っていた。
「聞いてるか?」
「うん」
「この間の夜のことだけど」
「うん」
「あれは、その」
「うん」
「その、」
花は遂にいたたまれなくなって、立ち止まった。
「……だ、大丈夫だよ、心配しないで!」
俯きながら大きな声で言うと、煌星はきょとんとした顔をして、花を見下ろした。
「何もなかった。わたしも煌星も、寝ぼけていたんだよ、きっと。それか、不慮の事故だよ」
俯いたままで、一気に言った。煌星の口から、忘れて欲しい、とか、そうゆう言葉を聞きたくなかったのだ。その前に、自分から、何も無かったことにしてしまおうと思った。
けれど、煌星は、驚いたことに、眉を寄せて睨んできた。
「なんだよ、それ」
その冷たい言い様に、怯んでしまった。後ずさりしそうになって、言葉に詰まる。こんな反応は、予想していなかった。煌星はどうして怒っているのだろう。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「どうって」
「煌星は、あのキスが、不慮の事故じゃ、嫌なの?」
「……」
「どんなものだったら、よかったの?」
「……」
「……何か言ってよ、わかんない」
涙声になりそうになって、あわてて言葉を切って、何度も瞬きをした。こんなとこで泣いて、どうするんだ。煌星は暫く黙っていたけれど、苛々とした口調で答えた。
「ただ、お前が何でもないことみたいに言うから。ラシェッドの変わりなのかと思ったら、すごく腹が立ったんだ」
なんだって? 花は、信じられない気持ちで、煌星を見つめた。花の気持ちにすっかり気づいているのだと思っていたら、煌星がそんなことを思っていたなんて。ラシェッドの変わりだなんて、思っていたなんて、鈍いにもほどがあるんじゃないだろうか。
「違う!」
思わず必死に叫んでしまった。
「そんなんじゃないもん。わたしは、煌星だから」
煌星は、驚いているような、戸惑っているような顔だった。花はごくりと唾を飲み込んで、煌星の瞳を見つめる。心臓が破裂しそうで、声が震えていた。煌星だから、煌星が好きだから、キスしたんだよ。言ってしまえ、言ってしまえ、と頭の奥から声がする。けれど、すき、ただそれだけの言葉が、どうしても言えなかった。花は唇を噛み締めると、視線を落とした。
「煌星は、どうしてあんなことしたの」
「あれはお前が、……じゃあ、お前はなんでキスしたんだよ」
「それは」
「何だよ」
「煌星だって。煌星は、誰でも良かったんでしょう?」
「違う」
「違わないよ」
「そんなんじゃない」
「……」
「誰にでもあんなことしないよ」
「じゃあ、どうして?」
恐る恐る、煌星を見上げてみたけれど、煌星は視線から逃れるように、ふいっとそっぽを向いた。
「わかんない」
また痛い沈黙が訪れた。さっきから、そればかりだ。煌星の横顔を憎々し気に見つめた。居たたまれなくなって、何とか口を開こうとしたけれど、奥の方から、生徒達のざわめき声が聞こえてきて、花は思いとどまった。煌星をちらりと見ると、軽く頷いたので、花と煌星は気まずい沈黙のまま、来た道を戻った。後ろから生徒の楽しげな声が追いかけてくる。
もやもやとしたままで、一限目は煌星と同じ授業だった。ふたつ前、みっつ向こうのテーブルで、けだるそうに頬杖をついている煌星に、自然と目がいってしまう。真っ黒な髪の毛と、少しだけ見える横顔。
前まではあんなに近くにあったものが、今ではすごく遠い気がした。確かにふたり並んで歩いていたのに、向き合った途端に、全てがおかしくなってしまった。ふたりでラシェッドのことや小松さんについて話して笑ってた、あの頃が遠い昔のことのようだ。ずっとそんな日々が、続いていればよかったのに。あの日に戻れたらいいのに。どうして友達のままじゃ、駄目だったんだろう?
花は深い溜息をついて、ペンをくるくると弄んだ。ノートは真っ白、先生の話は左から右へ通り過ぎてゆく。窓の外を眺めてみたら、憎たらしいくらいの青だった。雲がゆっくりと流れてゆく。 この胸のもやもやも、煌星への気持ちも、同じように流れてしまえばいいのに。
その日の午前中はずっと、花は上の空で過ごした。
花と小松は、隣同士に座って昼食を食べていた。今日の昼食はトーストやバゲッドにデニッシュ、豚の血詰めウィンナーと野菜スープだった。花はぼんやりと、皮がぱりぱりとしたウィンナーをフォークにさしてかじりながら、大広間から疎らに移動する生徒を眺めていた。もうひとくちかじろうと思ったら、ウィンナーはぽろりとテーブルに落ちて、転がって、床に落下した。
「あ、」
「もう花、何やってるの。わたしの話、聞いてた?」
「え? えっと、ごめん、何だった?」
「……いいわ」
小松はため息混じりに言うと、花がお皿から落としたウィンナーを拾ってくれた。花はそれをまた無意識にフォークでさした。
「花、食べるの?ゴミついてるわよ」
「え? あ、ううん、食べない」
慌ててフォークを置いたけれど、どうして小松が素っ頓狂な声を上げたのかとか、どうしてフォークを置いたのかはよくわかっていなかった。
「もともと、ぼうっとしてるところがあったけど。どうしたの、花。最近ずっと上の空じゃない」
ぼんやりと小松の顔を見ると、小松は形の良い眉を少し寄せて、訝しげに見つめている。小松さんの唇って、口紅を塗っているわけでもないのに綺麗な色をしているなあ。煌星はこの唇に、キスをしたんだろうか。
「花、聞いてるの?」
「うん?」
「もういいわ」
小松は肩を竦めると、トーストをかじった。サクサクと美味しそうな音がするので、フォークはそのままに花もトーストに手を伸ばしてみた。けれど、手を伸ばそうとしたら、目の前に今一番気まずい人が視界に入ってきたので、思わず手を引っ込めてしまった。ぼんやりとしていた頭が覚醒したみたい。動転して何度も瞬きをしてしまった。煌星はテーブルに近づいてくると、花と小松のところに真っ直ぐやって来る。
「ちょっと、いい?」
煌星は花と目を合わせようとせず、小松に向かってそう言った。煌星が目を合わせようとしないのをいいことに、煌星をじっと見上げていた。無表情で何を考えているのかわからなかったけど、いつもより少し険しい顔だった、気がする。小松が頷くと、煌星は踵を返した。それだけ? と煌星と小松さんを交互に見つめたけれど、やっぱりそれだけだった。煌星が踵を返すときに、その時に少しだけ目が合ったような気もしたけれど、気のせいかもしれない。煌星は何も反応せずに行ってしまった。
「花、ちょっとごめん。先に授業へ行ってて」
小松はナプキンで口元を上品に拭きながらそう言うと、ゆっくりとした動作で席を立って、煌星の後について食堂を出て行った。二人の姿が消えてしまってからも、花はぼんやりと食堂の入り口を眺めていた。
次の授業に小松と煌星はやってこなかった。隣のテーブルの女の子達が、そのことについて下品な噂話をしていたけれど、でも、煌星と小松はいったい何を話しているのだろう。気になって、知りたいような、知りたくないような。花は気を紛らわせるように、ノートをとることに専念した。終礼まで、小松と煌星が来ないかと気をもんだけれど、小松と煌星のことだから、そんな目立つことはしないだろう。やっぱり、二人ともその授業には現われなかった。
授業後、生徒たちは教卓へレポートを提出しながら教室を出た。花はぼんやりしていたので、先生がレポートを集め、教室から出ていくところでようやく気付いた。慌てて先生を追いかけるが、花が呼び止めても先生は一向に気づかず、花を無視して廊下へ出てしまった。不思議に思って花は一度立ち止まる。もしかして授業中に花が上の空だったからレポートを受け取ってもらえなかったのかもしれないと思った。しかし、レポートを受け取ってもらえなければ花の成績は進級できるか怪しい。花は気を取り直して、先生に駆け寄った。しかし、やはり先生は花のことがまるで見えないように、通り過ぎて行った。花は状況が上手く呑み込めず、先生の後ろ姿を呆然と見送った。
わたしが、見えていないようだった。
花はそんなわけないと頭を振った。そんな馬鹿なことがあるわけがない。
近くの教室から、授業から解放された生徒たちが出てきた。花は生徒の波にのまれたが、そこでまた違和感を覚えた。生徒たちは花に目もくれない。流れの真ん中に花がいるのに、一目もくれず、過ぎてゆく。花がいくらじっと見ても、まるで気にしない。花は恐ろしくなった。まるで自分がこの場にいないような気になった。右を見ても、左を見ても、知らない顔。花は急に足場が崩れてゆくような不安に襲われた。みんなどうしてしまったのだろう? それとも自分がおかしいのだろうか?
