十三
踊り場の階段を降りる時に、ふと窓の外に目を向けたら、見覚えのある黒髪を見つけたので、立ち止まって窓から身を乗り出した。木陰を歩くその人物を確認して、やっぱり、と嬉しくなる。三階からでもよくわかる。あの出で立ち黒髪は煌星のものだ。煌星とラシェッドはふざけ合いながら歩いていたけれど、ふと見ると、教科書の入ったカバンを無造作に抱え、煌星は池の水面を眺めていた。煌星ったら、何ぼーっとしてるんだろう。
声を張り上げようとした。けれど、煌星の視線の先に気がついて、叫ぶのを止めた。手を下ろす。窓の桟を掴む。煌星が眺めていたのは、水面なんかじゃなかった。煌星の視線をゆっくり辿ると、その先には、小松がいた。反対側の池の淵を歩いている。
「煌星」
思わず、小さな声で呟いた。気づけ、気づけ、と煌星のつむじに向かって心の中で叫んでみるけれど、いくら胸の内で叫んでも、煌星に届くわけが無い。小さくため息をついた。
すると、途端に視界が暗闇に包まれた。誰かが目を覆っている。その、前にも経験した感覚に、一瞬、煌星? なんて、有り得ないことを思ってしまった。煌星を見てたのに、煌星が遮ることなんて出来っこないのに。目を覆う手を掴んでみたら、それは女の子のものだった。華奢な手首。
「だあれだ」
「ええっと、ユリア?」
「あたり!」
ユリアは手を離し、隣にまわると、にっこりと笑った。それから窓の外を見渡す。
「何見てたのー?」
「え、あっ、えーと」
「あ、ラシェッド達だ。ねえ聞いた? みんな発表会の選考通ったね。回廊では絵画や刺繍作品とかも並ぶし、中庭のステージはもう装飾が始まってるし、いよいよね」
「うん。ユリアたちバレエ組は何をするの?」
「大がかりなものは出来ないから、だいぶアレンジしてやるんだけど『ジゼル』よ。知ってる?」
「えーと、恋人に裏切られた村娘のジゼルがショックで死んでしまって、亡霊になって出てくる話?」
「うん、まあそんな感じね。その第二幕をメインにやるの。亡霊となったジゼルが裏切った恋人を守り、消えてゆく。恋人に別れを告げるシーンね」
「ユリアのジゼル、可愛いだろうな」
「うーん、実は、ちょっと表現に迷っていて。本番までにしっかりどうやるか見つけなきゃ。自分を死に追いやった、裏切った男を、なんで許せるかな? とか思ったら、細かい表情とか、難しくて」
「表現か。物語があると、大変なんだね」
でも、と花は考えた。対等に好きだと思えば裏切られたときに相手を憎むかもしれない。しかし花の気持ちは対等なものではなく完全降伏だった。
「心から好きだったら、わたしは許しちゃうかもしれないな」
「そうか。花みたいな女の子だったのかもしれないな。そう思ったらちょっとわかってきたかも」
ユリアはひとりで頷いて、考えに耽っているようだ。
「花に好かれる人は幸せね」
そうだろうか? と花は思う。全面降伏した相手に魅力を感じるだろうか。
ユリアは何かをつかんだようで、早く踊りたくて仕方がないと笑った。一緒に笑おうとするけれど、胸の中のしこりがずとんと落ちる。ユリアは煌星のことを好きだって知らないから、そんなこと言えるんだ。もし煌星のことを好きだと打ち明けたら、ユリアは何ていうかな。煌星は、どう思うだろう。怒るのかな、悲しむのかな、戸惑うのかな、それとも。
急に、あの日、煌星が連れて行ってくれた、星空が見たくなった。ラシェッドに失恋して落ち込んでいた時に、煌星が連れて行ってくれた林の中。今日の夜、こっそり抜け出してみようかな。夜に寮を抜け出そうなんて考えたのは初めてだった。煌星の影響だろうか。でも、思いついた途端、ドキドキした。レポートの提出はいつも遅れてしまうけれど、規則を破ろうと思ったことなど無い。制服だって、規則通りに着ている。なのに、夜に女子寮を抜け出すなんて。自分の思い付きに驚いたけれど、あの綺麗な澄んだ空気を吸ったら、ちょっとはもやもやする気持ちが治まるような気がしたのだ。
同室の女の子達が寝静まってしまった後、花はこっそりと女子寮を抜け出した。
少し迷ったけれど、その林はすぐに見つかった。見覚えのある景色が広がっている。息が白い。花は、手袋とマフラーもつけてくればよかったと後悔した。
もう少し高いところまで行こうと、急な斜面まで登ってみた。すると、反対側に何かの気配がした。落ち葉を踏みしめる音。もしかして、と少しの期待を抱きながら、のぞいてみた。期待通りの人物と、あまりの偶然に、驚くより先に笑ってしまう。やっぱり、煌星がいた。まさか煌星も今日、この時間、ここに来るなんて。こんなところで、ひとりで、何しているんだろう。人のことは言えないのだけれど。
「わたしたちって、間が悪いのか、気が合うのか」
「花?」
煌星は振り返ると、驚いて声を上げた。最初に樫の木で出会ったときといい、今日といい、本当、間が悪いのか、気が合うのか、どっちかしら。きっと、あの日あそこで出会わなくても、いつかどこかで出会って、また友達になったに違いない。
「びっくりした。煌星って毎晩こんなことしてるの?」
「まさか、そんなわけない。たまたまだよ。花こそ、何でこんなとこに居んの」
「急にここに来たくなったの」
煌星はいつもより少し元気が無かった。そういえば、今日窓から煌星を見たときも、小松を見つめる顔は少し曇っていた気がする。
「小松さんと何かあったの?」
「なんで?」
「なんとなく、小松さんかなって」
煌星はちらり、とこちらを見たけれど、何も言わなかった。煌星の横に腰掛けた。同じように座って、同じ場所を眺める。指先に息を吹きかけて温めた。煌星はズボンのポケットに両手をつっこんでいた。
「どうしたの」
「んー」
「何かあったの?」
「何かって言うか」
「言いたくないこと?」
煌星はちょっと情けない顔をして笑った。ぎゅ、と胸がしぼられたみたいになる。そんな煌星の顔は見たことが無かったら、心臓は驚きに揺れた。思わず煌星を見つめてしまう。何故か、胸が軋む。なんでもないふりして、こんなこと聞いて。自分があさましい。
「笑うなよ?」
「笑わない」
ちょっと茶化して言った煌星とは反対に、花はしっかりと答えた。煌星は花の顔を黙って見つめた。花も煌星を見つめ返した。
「んー」
煌星は視線を外すと、また言葉を選ぶように唸った。それから、また眼下に広がる森の方を見つめながら、躊躇いがちに訥々と話し始めた。
「俺の母親はさ、俺が小さいころから頭おかしくなってて、母親らしいことはなにもされなかったから、こっちも母親だとはあまり思えなかったんだけど、毎週手紙がきててさ、意味不明な日記みたいなやつだけど。それで、刺繍も入ってたりして。煩わしく思ってたんだけれど、もう少し返事を返せばよかったなって今更後悔してるのかもしれない」
「これから返せばいいよ」
「無理なんだ。体調を崩して、そのまま。それで一晩、実家に帰っていた。看取ってきたんだ」
「亡くなったの」
花は、なんて言葉をかけたらいいのかわからなかった。
「そう。だけど悲しくなくて。こっちに帰ってきてから、母の人生を考えたり、自分の仕打ちを考えたりして、落ち込んでるんだと思う」
まるで他人の感情のように話す煌星は、自分の感情に素直になれず持て余しているように見えた。
煌星は瞳を伏せた。思ったよりも長い睫が、頬に陰る。花と肩を並べて、今は後ろ手に体を支えて、夜景を眺める煌星。
夜の侘しい雰囲気がそうさせるのか、煌星はいつもと違って、素直で、そして弱々しかった。普段は絶対見せない部分を花に見せている。だからなのか、煌星が泣いてしまいそうな気がして、花はどきりとした。愛に飢えた痛々しい子どもがひとりぼっちで泣きそうになっているような気がして、抱きしめてあげたくなった。
そう思った、次の瞬間、花は煌星の唇に、自分の唇を重ねていた。ふれるだけだった。一瞬だけ。すぐに離れた。けれど、花の唇が、煌星の唇のはじっこにふれた瞬間、世界の音が消えた気がした。煌星の瞳は大きく見開かれて、その中には花が映っていた。
刺すような冷たい夜風が頬をなでた。花は急に我に返り、居たたまれなくなって、視線を外した。何か言わなければいけないと思った。でも何も浮かんでこなくて、頭が真っ白になった。何か、言わなきゃ。気まずい沈黙に耐えられなかった。
「げ、元気の出るおまじない?」
たっぷりの沈黙の後、しどろもどろになって、間抜けな弁解を並べた。けれど、次第に小さくなる声、震える指先は、どうにもならない。煌星の視線が痛い。でも煌星の方は怖くて見ることができなかった。どんな顔をしているのか怖くて知りたくなかった。花は伸ばした足の先と、その先に広がる星空だけに意識を集中させながら、意味の無いことを口走る。煌星の視線から逃げたくて仕方が無かった。煌星は何も言ってくれないから、花は意味の無い接続詞を並べてしまう。
「言ってたじゃない、煌星、だから、」
どうして黙ってるの。
「だから、その」
何か言ってよ。
「だから」
煌星。
「その、ファーストキスだ」
煌星の痛いくらいの沈黙にどうしようもなくなって、花はとうとう、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、観念したように、呟いた。
キスしてしまった。俯いて、中指で自分の唇にふれてみる。まさか、自分からするとは思わなかった。重ねるだけだった。キスなんて、どうやるのかわかんない。でも煌星にキスしてしまった。どうして、そんなことをしてしまったのか、わからないけれど、あの時すごく、したかったのだ。煌星の切なそうな横顔を見ていたら、どうしようもなくなって、次の瞬間、キスしてた。気づいたら、していた。びっくりだ。
心臓がどくどくと煩かった。煌星は、どう思ったのかな。びっくりしてるよね。それとも、怒っているかな。花は、耐えかねて、恐る恐る、煌星の顔を盗み見ようとした。でも出来なかった。
煌星の顔が近づいてきて、星空が消えて、時が止まったような気がした。柔かいものがふれる。煌星は、ついばむように、キスをした。小さく息を吸い、ゆっくりと、角度を変えて、もう一度。二回の小さなキスだった。
その時、虫の音が響いていたはずなのに、花の耳には何も聞こえてこなかった。耳鳴りがしているみたいに、キインとした静寂。自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。どうして、とか、なんで、とか、そんなことは考えられなかった。目なんか瞑っている余裕はなかった。ただ涙が出そうで、ただ眩暈がした。
踊り場の階段を降りる時に、ふと窓の外に目を向けたら、見覚えのある黒髪を見つけたので、立ち止まって窓から身を乗り出した。木陰を歩くその人物を確認して、やっぱり、と嬉しくなる。三階からでもよくわかる。あの出で立ち黒髪は煌星のものだ。煌星とラシェッドはふざけ合いながら歩いていたけれど、ふと見ると、教科書の入ったカバンを無造作に抱え、煌星は池の水面を眺めていた。煌星ったら、何ぼーっとしてるんだろう。
声を張り上げようとした。けれど、煌星の視線の先に気がついて、叫ぶのを止めた。手を下ろす。窓の桟を掴む。煌星が眺めていたのは、水面なんかじゃなかった。煌星の視線をゆっくり辿ると、その先には、小松がいた。反対側の池の淵を歩いている。
「煌星」
思わず、小さな声で呟いた。気づけ、気づけ、と煌星のつむじに向かって心の中で叫んでみるけれど、いくら胸の内で叫んでも、煌星に届くわけが無い。小さくため息をついた。
すると、途端に視界が暗闇に包まれた。誰かが目を覆っている。その、前にも経験した感覚に、一瞬、煌星? なんて、有り得ないことを思ってしまった。煌星を見てたのに、煌星が遮ることなんて出来っこないのに。目を覆う手を掴んでみたら、それは女の子のものだった。華奢な手首。
「だあれだ」
「ええっと、ユリア?」
「あたり!」
ユリアは手を離し、隣にまわると、にっこりと笑った。それから窓の外を見渡す。
「何見てたのー?」
「え、あっ、えーと」
「あ、ラシェッド達だ。ねえ聞いた? みんな発表会の選考通ったね。回廊では絵画や刺繍作品とかも並ぶし、中庭のステージはもう装飾が始まってるし、いよいよね」
「うん。ユリアたちバレエ組は何をするの?」
「大がかりなものは出来ないから、だいぶアレンジしてやるんだけど『ジゼル』よ。知ってる?」
「えーと、恋人に裏切られた村娘のジゼルがショックで死んでしまって、亡霊になって出てくる話?」
「うん、まあそんな感じね。その第二幕をメインにやるの。亡霊となったジゼルが裏切った恋人を守り、消えてゆく。恋人に別れを告げるシーンね」
「ユリアのジゼル、可愛いだろうな」
「うーん、実は、ちょっと表現に迷っていて。本番までにしっかりどうやるか見つけなきゃ。自分を死に追いやった、裏切った男を、なんで許せるかな? とか思ったら、細かい表情とか、難しくて」
「表現か。物語があると、大変なんだね」
でも、と花は考えた。対等に好きだと思えば裏切られたときに相手を憎むかもしれない。しかし花の気持ちは対等なものではなく完全降伏だった。
「心から好きだったら、わたしは許しちゃうかもしれないな」
「そうか。花みたいな女の子だったのかもしれないな。そう思ったらちょっとわかってきたかも」
ユリアはひとりで頷いて、考えに耽っているようだ。
「花に好かれる人は幸せね」
そうだろうか? と花は思う。全面降伏した相手に魅力を感じるだろうか。
ユリアは何かをつかんだようで、早く踊りたくて仕方がないと笑った。一緒に笑おうとするけれど、胸の中のしこりがずとんと落ちる。ユリアは煌星のことを好きだって知らないから、そんなこと言えるんだ。もし煌星のことを好きだと打ち明けたら、ユリアは何ていうかな。煌星は、どう思うだろう。怒るのかな、悲しむのかな、戸惑うのかな、それとも。
急に、あの日、煌星が連れて行ってくれた、星空が見たくなった。ラシェッドに失恋して落ち込んでいた時に、煌星が連れて行ってくれた林の中。今日の夜、こっそり抜け出してみようかな。夜に寮を抜け出そうなんて考えたのは初めてだった。煌星の影響だろうか。でも、思いついた途端、ドキドキした。レポートの提出はいつも遅れてしまうけれど、規則を破ろうと思ったことなど無い。制服だって、規則通りに着ている。なのに、夜に女子寮を抜け出すなんて。自分の思い付きに驚いたけれど、あの綺麗な澄んだ空気を吸ったら、ちょっとはもやもやする気持ちが治まるような気がしたのだ。
同室の女の子達が寝静まってしまった後、花はこっそりと女子寮を抜け出した。
少し迷ったけれど、その林はすぐに見つかった。見覚えのある景色が広がっている。息が白い。花は、手袋とマフラーもつけてくればよかったと後悔した。
もう少し高いところまで行こうと、急な斜面まで登ってみた。すると、反対側に何かの気配がした。落ち葉を踏みしめる音。もしかして、と少しの期待を抱きながら、のぞいてみた。期待通りの人物と、あまりの偶然に、驚くより先に笑ってしまう。やっぱり、煌星がいた。まさか煌星も今日、この時間、ここに来るなんて。こんなところで、ひとりで、何しているんだろう。人のことは言えないのだけれど。
「わたしたちって、間が悪いのか、気が合うのか」
「花?」
煌星は振り返ると、驚いて声を上げた。最初に樫の木で出会ったときといい、今日といい、本当、間が悪いのか、気が合うのか、どっちかしら。きっと、あの日あそこで出会わなくても、いつかどこかで出会って、また友達になったに違いない。
「びっくりした。煌星って毎晩こんなことしてるの?」
「まさか、そんなわけない。たまたまだよ。花こそ、何でこんなとこに居んの」
「急にここに来たくなったの」
煌星はいつもより少し元気が無かった。そういえば、今日窓から煌星を見たときも、小松を見つめる顔は少し曇っていた気がする。
「小松さんと何かあったの?」
「なんで?」
「なんとなく、小松さんかなって」
煌星はちらり、とこちらを見たけれど、何も言わなかった。煌星の横に腰掛けた。同じように座って、同じ場所を眺める。指先に息を吹きかけて温めた。煌星はズボンのポケットに両手をつっこんでいた。
「どうしたの」
「んー」
「何かあったの?」
「何かって言うか」
「言いたくないこと?」
煌星はちょっと情けない顔をして笑った。ぎゅ、と胸がしぼられたみたいになる。そんな煌星の顔は見たことが無かったら、心臓は驚きに揺れた。思わず煌星を見つめてしまう。何故か、胸が軋む。なんでもないふりして、こんなこと聞いて。自分があさましい。
「笑うなよ?」
「笑わない」
ちょっと茶化して言った煌星とは反対に、花はしっかりと答えた。煌星は花の顔を黙って見つめた。花も煌星を見つめ返した。
「んー」
煌星は視線を外すと、また言葉を選ぶように唸った。それから、また眼下に広がる森の方を見つめながら、躊躇いがちに訥々と話し始めた。
「俺の母親はさ、俺が小さいころから頭おかしくなってて、母親らしいことはなにもされなかったから、こっちも母親だとはあまり思えなかったんだけど、毎週手紙がきててさ、意味不明な日記みたいなやつだけど。それで、刺繍も入ってたりして。煩わしく思ってたんだけれど、もう少し返事を返せばよかったなって今更後悔してるのかもしれない」
「これから返せばいいよ」
「無理なんだ。体調を崩して、そのまま。それで一晩、実家に帰っていた。看取ってきたんだ」
「亡くなったの」
花は、なんて言葉をかけたらいいのかわからなかった。
「そう。だけど悲しくなくて。こっちに帰ってきてから、母の人生を考えたり、自分の仕打ちを考えたりして、落ち込んでるんだと思う」
まるで他人の感情のように話す煌星は、自分の感情に素直になれず持て余しているように見えた。
煌星は瞳を伏せた。思ったよりも長い睫が、頬に陰る。花と肩を並べて、今は後ろ手に体を支えて、夜景を眺める煌星。
夜の侘しい雰囲気がそうさせるのか、煌星はいつもと違って、素直で、そして弱々しかった。普段は絶対見せない部分を花に見せている。だからなのか、煌星が泣いてしまいそうな気がして、花はどきりとした。愛に飢えた痛々しい子どもがひとりぼっちで泣きそうになっているような気がして、抱きしめてあげたくなった。
そう思った、次の瞬間、花は煌星の唇に、自分の唇を重ねていた。ふれるだけだった。一瞬だけ。すぐに離れた。けれど、花の唇が、煌星の唇のはじっこにふれた瞬間、世界の音が消えた気がした。煌星の瞳は大きく見開かれて、その中には花が映っていた。
刺すような冷たい夜風が頬をなでた。花は急に我に返り、居たたまれなくなって、視線を外した。何か言わなければいけないと思った。でも何も浮かんでこなくて、頭が真っ白になった。何か、言わなきゃ。気まずい沈黙に耐えられなかった。
「げ、元気の出るおまじない?」
たっぷりの沈黙の後、しどろもどろになって、間抜けな弁解を並べた。けれど、次第に小さくなる声、震える指先は、どうにもならない。煌星の視線が痛い。でも煌星の方は怖くて見ることができなかった。どんな顔をしているのか怖くて知りたくなかった。花は伸ばした足の先と、その先に広がる星空だけに意識を集中させながら、意味の無いことを口走る。煌星の視線から逃げたくて仕方が無かった。煌星は何も言ってくれないから、花は意味の無い接続詞を並べてしまう。
「言ってたじゃない、煌星、だから、」
どうして黙ってるの。
「だから、その」
何か言ってよ。
「だから」
煌星。
「その、ファーストキスだ」
煌星の痛いくらいの沈黙にどうしようもなくなって、花はとうとう、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、観念したように、呟いた。
キスしてしまった。俯いて、中指で自分の唇にふれてみる。まさか、自分からするとは思わなかった。重ねるだけだった。キスなんて、どうやるのかわかんない。でも煌星にキスしてしまった。どうして、そんなことをしてしまったのか、わからないけれど、あの時すごく、したかったのだ。煌星の切なそうな横顔を見ていたら、どうしようもなくなって、次の瞬間、キスしてた。気づいたら、していた。びっくりだ。
心臓がどくどくと煩かった。煌星は、どう思ったのかな。びっくりしてるよね。それとも、怒っているかな。花は、耐えかねて、恐る恐る、煌星の顔を盗み見ようとした。でも出来なかった。
煌星の顔が近づいてきて、星空が消えて、時が止まったような気がした。柔かいものがふれる。煌星は、ついばむように、キスをした。小さく息を吸い、ゆっくりと、角度を変えて、もう一度。二回の小さなキスだった。
その時、虫の音が響いていたはずなのに、花の耳には何も聞こえてこなかった。耳鳴りがしているみたいに、キインとした静寂。自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。どうして、とか、なんで、とか、そんなことは考えられなかった。目なんか瞑っている余裕はなかった。ただ涙が出そうで、ただ眩暈がした。
