ハナノユメ

 母の部屋を出ると、雪は外で待機していた。母の部屋からほど近い客間を整えてあるのというので、今日はそこに泊まることになった。
「母はどうして?」
「少し前にお風邪を召しまして、それが酷くなって。肺炎でした。治る病でしたけれど、弱っていくばかりで。もう長いこと、生きる気力がないのです。しかし煌星さんから届いたお返事は大事にお持ちでしたよ。喜んでおられました」
 おざなりに書いた母への返信。それを母が喜んで受け取ったところ想像すると、煌星の心に針が刺さったようだった。煌星の一言で母の心が安寧になることを、本当は知っていたはずだった。煌星は気づかないふりをして、屋敷を出て母との距離が開いたのをいいことに忘れた。
 庭を通る渡り廊下から離れが見えた。煌星は、雪へあてた手紙を思い出した。あの離れにかつて住んでいた親子について、雪に聞いたのだった。
以前、数年間だけあの離れに女性と子どもがいた。当時のことをよく思い出そうと記憶を手繰るが、断片的にしか記憶がなかった。きれいな女性だったと思う。子どもは女の子だった。離れには近づいてはいけないと母に幾度となく言われており、そのせいで中に何があるのか気になって仕方がなかった。こっそりのぞいてみたらその二人がいたのだ。
 その頃は母はまだ正気を保っていたと思う。気に入らないことがあるとヒステリックに叫ぶことはあったけれど、少なくとも会話は出来た。あの二人が屋敷から消えたころから、母はおかしくなっていったように思う。
「雪、手紙にも書いたけれど、あの離れにいた女性は柳井というのではないの。それか藍野というのかもしれない」
 煌星は、いつのまにか小さくなった雪の背中に向かって問いかけた。廊下を先へ行く雪は、怯えるように肩を震わせた。
「あの人は父の愛人? 子どもは俺の異母妹だろうか。なぜあの離れに、まるで幽閉されているみたいに閉じ込められていたの」
 煌星はずっと、小松はあの時の女の子なのではいかと思っていた。学校で見かけた小松はあの女性によく似ていたからだ。もしかしたら自分の妹なのかもしれないと思っていたが、ぼんやりと感じていただけで、今まで確かめてみることはなかった。
「あの方は藍野千琴様です。旧姓は確かに柳井と聞いております」
「そうか。ではなぜ幽閉されていたのか」
「わたくしの口からは」
「雪、頼む」
雪は話したくないようだった。何かに怯えるように落ち着きがなかったが、煌星が食い下がると、観念して煌星と向かい合った。声を潜めて、周囲を伺うように恐々と話し始める。
「千琴様は特別な祝福を持つお方でした。辺境の一族、藍野家に嫁いでおいででしたが、黒川の血に必要だと旦那様がこの屋敷に招いたのです。千琴様は出産を終えられたばかりでしたので、離れで療養されていました。藍野家に残してきた赤子のことを気にされていましたが、旦那様は藍野家へ戻ることを許しませんでした。そのうち旦那様の子を身籠られたのです。出産後、千琴様はしばらく離れで子と暮らしておりましたが、子が四つになるころ亡くなられました。千琴様の祝福を受け継いでいなかった子は、柳井の家が引き取ったようですが、子はのちに施設へ送られたようです」
「招いただって? 権力をかさに着て脅し連れてきたんじゃないのか。あの男のやりそうなことだ。産まれた子も自分の思い通りにいかなかったらお払い箱か。それで柳井千琴はどうして死んだんだ?」
 煌星は自然と口調が荒くなってしまった。
「わたくしもよくは存じません。自分で命を絶ったと聞いております。千琴様は屋敷からよく抜け出そうとしていましたので監視の目厳しく、奥様も千琴様のことを嫌っておいででしたので、わたくしが関わることはありませんでした。使用人たちの噂で知ったことです。妻妾同居など、奥様が千琴様に辛く当たったのは、無理もないことと思いますが。奥様は千琴様がなくなってからふさぎ込むことが多くなりました」
「父と母が柳井千琴を追い詰めたのか」
 煌星は吐き気がした。元から帰りたいと思う家ではなかったが、今ほど自分の家を嫌悪したことはなかった。相変わらず薄暗いことの多い家だ。
 藍野家の当主、花の父は小松を援助していた。煌星の父母とは違い、藍野家の当主は、妻を愛していたのだろう。東の地を治める領主に逆らえず、妻を奪われ、子を引き取ることもできなかったけれど、元妻の子を人知れず援助していることが何よりの証拠だ。
 雪は目を伏せていた。父と母を悪く言うことは無かったけれど、煌星の言うことに反論をしないところを見ると、父が無理やり千琴を連れてきて、子を産ませたのは確かだと思った。
 嫌悪を隠さない煌星を気にしたのか、雪は取り繕うように言った。
「煌星さん、旦那様はあなたに期待しておいでです」
「だからなんだ? 出来損ないだと思った息子が使えそうで、第二の柳井千琴、小松を作らずに済んだってだけだろう」
 煌星は気を静めるために、雪を置いて部屋へ入った。雪が悪いわけではないのに、苛立ちをぶつけてしまいそうだった。 
 
 再度、雪に呼ばれたのは夜も更けたころだった。煌星はうとうとと眠りにつこうとしていた。母の様子が急変したという。煌星は、とうとうその時が来たのかと思った。雪は長年看病してきた疲れの蓄積がどっと出てきたのか、やつれ疲れて見えた。
「お医者様が、覚悟をしてくださいとおっしゃっていました」
 雪の後に続いて母の部屋に入ると、すでに近しい使用人たちが集まっていた。親族は誰もいない。父はとうとう来なかったらしい。母は息も絶え絶えで、うつろに天井を見上げていた。
「こ、せい」
 うわ言に煌星の名をつぶやいたので、煌星は目をそらせなくなった。
 母は一瞬夢から覚めたように煌星を見た。それは三秒ほどのことだったけれど、はじめて煌星は母に見られた気がした。長いことみていた夢から覚めたのかもしれなかった。けれどすぐにまたけぶる灰の瞳に戻ると、ゆっくりと目を閉じた。母が再び目を開けることは無かった。