ハナノユメ

十一

 煌星と小松が選考会のために二重奏を練習し始めたというニュースは、それからしばらく女の子達の話題を賑わせていた。それはほとんど二人が付き合い始めた、と同義語だったからだ。
小松を煌星にとられて悲しんでいる人は少なからずいるに違いない。けれどその数は、煌星に恋焦がれていた女の子達の比ではないだろう。何人の女の子が泣いたことか。花も”煌星に惚れてしまった女”という大勢の中のひとりに過ぎないのだということが、この数日間でよくわかった。煌星と一緒にいるとついつい忘れてしまうけれど、煌星はとても女の子に人気がある。女の子の中では花が一番仲良かったのが嘘みたいだ。でもそれも、煌星に女として見られてなかったからかもしれない。最初は親友のことが好きな女、次はただの友達。これからも、友達。ずっと、友達。花は、ため息をついた。ちゃんと、友達でいられるかな。
「保健室に行ったら?」
「彼女達に屈したみたいだから、嫌」
 小松の右手に視線を落としながら言うと、小松はしれっと答えた。それから少し煩わしそうに、右手のただれた部分をさすっている。先ほどの理科の授業で、過激な煌星ファンの方々から、小松は事故を装って手に薬品をかけられてしまったのだ。花はその場に居たからわかるのだけれど、あれは事故じゃなくて故意にやったとしか思えない。小松は、あまりにレトロな嫌がらせに逆に感心していた。
「煌星に言ったら」
「それも、嫌」
「半分は煌星のせいなんだからさ。小松さんに頼られたら、煌星喜ぶと思うけれど。それにピアニストの手にけがをさせるなんて、酷いよ」
 すると、小松は探るようにじいっと見つめてきた。その目に、後ずさりそうになる。動揺をみてとると、小松はさっと視線を逸らした。
「私が二重奏をやるからってだけではないと思う。花も知っているでしょ? あの噂」
 花と小松は食堂で昼食をとっていた。今日のお昼ごはんはサンドウィッチ。花はツナとトマトのサンドウィッチをかじっていた。小松はニシンとキャベツの酢漬けのサンドウィッチをつまんでいる。その間にも、生徒の視線が時々刺さった。小松が女生徒の落下事件の犯人だという噂は、日に日に広まっているようだった。
「でもやっぱり、やっかみが大半かな。煌星って、やっかいねえ」
 花と煌星が仲良くしていても、こういった嫌がらせを受けなかったのは、やっぱり煌星に友達としてしか思われてなかったからなんだよな、と花は小松の白い手を見ながら再確認した。それか、花の容姿では煌星と何かあるなんて確実に思われてなかったのかもしれない。落ち込んでしまうから、そこらへんは考えるのは止めよう。邪念を振り払うように頭を振った。ただでさえ煌星と小松のことで、こんなに気が滅入っているのに。
 それでも花は何とか笑顔を作った。いくら小松が羨ましくて、それからちょっと憎くて、本当は一緒に居ると泣きたくなるのに、こうして小松に笑顔を向ける。小松は花のことを素直だって言う。煌星も顔に出やすいと言う。でも、寂しいとか、悲しいとか、そういうことは、やっぱり言えない。
 花は授業へ行く小松と別れると、目的地もなく廊下を歩いた。
ラシェッドとユリアとはぐれてしまい、ふたりで街を回ったことを思い返した。今思い返すと、あの時は何でもなかった煌星の一言、煌星の動作に胸が締め付けられてしまう。店内で、急に口の中に入れられた試食品。煌星は虫だなんて言うから、花は慌てて、近くにあったキャンディの棚を倒してしまったっけ。名前を呼ばれて、振り返った瞬間、口の中に入れられたあまいもの。その時に、花の唇に触れた煌星の指先。あの時は何も感じなかったのに、今、思い出すと、それだけで息が詰まる。お菓子の甘い感覚と共に蘇る、煌星の指先。

 気づいたら、時計塔の近くまで来ていた。花は、ここが女生徒が落ちた塔だとしばらくして気づいた。数か月は立ち入り禁止になっていたらしく、テープが貼られている。花は何を思ったのか、テープを超えて、木造りの階段を登り、バルコニーに出てみた。軋むドアをあけると、風が花の頬をなでた。潮の香りがした。そっと手すりに近づくと、下を覗いてみる。小さく見える中庭とコの字型の回廊。それから校舎から平地に広がるように森とかつての城塞都市が続いている。校舎の反対側は崖で、どこまでも続く黒海が青々と晴れやかに広がっている。曇りがちだった花の心も少しだけ晴れるような気がした。
 ふと、声がして振り返った。誰かが塔の上に来るらしい。花は慌てて、立ち入り禁止のバルコニーから離れようとしたけれど、急に気になって、立ち止まった。何が気になったのか自分でもわからなかった。言いようのない不安と、既視感。悲しみと、戸惑い。そんな感情がせめぎあった。この塔のバルコニーに来たことは無いはずなのに、知っていた。どうしてだろう。
 花は咄嗟に影に隠れた。立ち入り禁止のバルコニーにあらわれたのは、ひとりの男子生徒だった。思いつめたような横顔をしている。手には一本の薔薇を持っていた。女生徒が落ちたであろう、先ほど花が立っていた場所に、薔薇を手向けた。
 彼のことは、見たことがあった。ラシェッドと煌星と仲が良かったから。それに、女生徒の事件を調べているということで、今や有名人であった。悠木という名前だった。くすんだ茶色の髪と薄い瞳ははかなげで、白い頬はまるで少女のようだった。その頬に涙が伝うのを、花は息をつめてみつめた。そのままバルコニーから落ちてしまうのではないかと思うほど、悲痛な横顔だった。花は思わず声をかけていた。
「あ、あの、悠木くん?」
 悠木は、ぴくりと肩を震わせたけれど、涙を袖口でふいて、花からみえないように背中をむけた。花は、何もかける言葉がみつからなかった。花はもう一度声をかけようとして止めると、そのまま塔を降りていくことにした。
 小松の悪い噂は彼が発端だったので、少なからず憎く思うことはあったけれど、あの小刻みに震えた背中は花を複雑な気持ちにさせた。彼は彼で、亡くなった女生徒のために必死なのだ。

 食堂の前を通ると、煌星と小松が並んで歩いているが見えた。早めの夕食を取ろうと思っていたけれど、ふたりを見たら、入りそびれてしまった。花はそのまま校庭に出た。夕陽は沈みかけ、夜の校庭が顔を出し始めている。足はなんとなく、樫の木の方へと向かっていた。
 そういえば、あの樫の木は、はじまりの場所だ。煌星との関係がはじまった場所。いろんなことが、あった。街へ行った帰りの反省会でなんか、煌星にもたれかかって眠ってしまった。今思い出すと、顔から火が出そうだ。煌星の寝顔を思い出すと、胸が温かくなる。小松のことを話す煌星の楽しそうな顔を思い出すと、胸が締め付けられる。すっかり、煌星に支配されてしまった。何をしていても、煌星のことばかり、考えている。ラシェッドに失恋したときよりもずっと、ずっと、比べ物にならないくらい痛い。どこがいたいのかわからないけれど、こういうとき、胸が痛いとしか言いようが無いのか。花は痛くて、痛くて、しょうがなかった。どうして、こんなに、好きになっちゃったんだろう。
樫の木によじ登ると、いつものくぼみに背中を預けてみた。ここでこうして、煌星はピアノを聴いていたんだな。なかなか、情緒のあることをするな、煌星も。はじめて出会った時も、こうしていたのかな。
 ふと、煌星の書いた落書きを思い出して、どこにあったかと探してみた。花の名前とラシェッドの名前が書かれた、相合傘。こうして木の上に登れば目立つところに書いてあるので、すぐに見つかった。巨大なカシの木の幹に書かれた小さな相合傘。それを指で辿る。それから何を思ったのか、ペンを取り出した。
 ほんのちょっとの、自己満足だった。左側の名前を消すと、新たな名前を上から書き添える。落書きの変更。それを、暫く眺めていた。煌星と、花の、名前。
 煌星はもうここには来ないだろう。その必要は、ないんだから。でももし来たら。もしも、ここへ登ったら。気づくかしら、気づかないかしら。花の最後の、小さな悪あがきだった。