九
授業が終わった後のがやがやとした教室。アリス、ターニャ、アレックスと花の四人は選考会に向けての打ち合わせを行っていた。曲や振り付けも大方決まって、練習日程などを相談していたが、やがて話は雑談にそれていった。
「ねー花、聞いてるの?」
「はい?」
花は間の抜けた返事をしながら、友人達を見上げた。なにやら、彼女たちは楽しい話題で盛り上がっていたらしく、その内容を振ってくれたらしい。けれど花が全然聞いていなかったので、呆れていた。
「もう、聞いてなかったの? 花は、おっとりしてるのねえ」
ターニャは頬杖を突きながらにこにこしている。
「ごめん、何だった?」
「だから、あの二人の中でどっちがタイプかっていう話」
「あの二人?」
「あの二人といったら、あの二人でしょう」
花は、ああ、と理解した。この議論は度々女子寮の中でも行われていた。いくども飽きることなく繰り返されてきたポピュラーな話題。つまり、ラシェッドと、煌星と、同学年の男子の中では、どっちがタイプか、ということ。
「やっぱ煌星かなあ。何より、ハンサムだし」
「わたしはラシェッド! 踊ってるときの彼って、最高じゃない?」
ターニャがのんびりした口調で言うと、アリスが身を乗り出し、アレックスが諫めた。
「ラシェッドはもうユリアのものじゃなかったかな」
「もう、思い出させないでよ! ああ、でも、そうなのよねー。本当、いつのまにって感じ。でもやっぱり、ラシェッドよ」
「煌星だって」
きゃっきゃとはしゃいでいる三人を、奇妙な気持ちで見つめていた。三人にとっては、野イチゴとプラム、どっちが好き? と同じレベルの話なのである。三人にはそれぞれちゃんと意中の人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。それとは別次元の話なのだ。忘れていたけれど、煌星も、ラシェッドも、女の子にとても人気があったのだ。煌星や小松とよく一緒にいたせいで、すっかり忘れていた。
「で、花は?」
彼女たちはひとしきり騒ぐと、ぐい、と詰め寄ってきた。
「えっと、えっと、わたしは」
花は口ごもったが、うまく切り抜ける方法を知らなかった。困ってしまう。
「花は俺だよな」
急に、後ろから聞こえてきた声に、驚いて振り返った。アレックス、ターニャ、アリス達も驚いたようで、気まずそうに顔を見合わせている。無理もないだろう、後ろには話題の渦中、煌星本人がいたのだから。
「だ、だれが煌星なんかっ!」
反射的にそう叫ぶと、煌星は「照れちゃって」と悪戯っぽく笑って、入り口付近で待っているラシェッドのところへかけてゆく。花は妙な拍を打っている胸を押さえた。すると、三人の視線が花に集まっているのに気づいた。
「な、なに?」
「花って煌星と仲良いよね」
「なんで? 最近急にじゃない?」
「それにさっきの。煌星って花のこと、好きなのかね?」
「私も思った。なんか、花には優しい気がする。煌星って普段、女の子にあんな風にかまわないもん」
「っちがうよ!」
ついつい、大きな声を出してしまった。三人は、少し驚いたよう見つめてきた。花はいたたまれなくなって、誤魔化すように言った。
「しばらく、忙しくなるね。次の練習までに、ちゃんと振り付け覚えてくるね」
そう言うと、不思議そうにしている三人の視線から逃れるように、テーブルを離れた。
だって、違うのだ。あれは、ただ単に反応を楽しむ悪ふざけ。それと。花にはわかったが、あれは、煌星の分かり難いやさしさ。煌星は花が答え難いと思って、ああやって茶化してくれたのだ。煌星は花がラシェッドを好きだったことをしっているから。
確かに、煌星は優しい。他の女の子よりも花に優しい。だけどそれに、特別な意味は無い。花がラシェッドに失恋してしまったから。だから、煌星は花に優しいのだ。
それにしても、どうして、それを残念に思っているのだろう。花は思わず、ため息をついてしまう。急に足場が崩れるような気がして、何かにしがみつきたくなって、自分の腕を握り締めた。
三人が、わたしに、誰がタイプかと、聞いた時、思い浮かべてしまったのは、誰。わたしは誰を思い浮かべた?
花は、煌星が話す、楽しそうな顔を思い出して、気分が沈んだ。それはいつだって、小松のことを話している時だった。
食堂で夕食をとったあと、花は女子寮へと戻るため二階の回廊を歩いていた。次第に寒くなってきて、陽が沈むと石造りの校舎はぐっと冷え込んだ。夕食に煮込み料理が増えたのはありがたかった。今日の夕食はビーツと野菜を煮込んだスープで、おかわりをして体をあたためた花には廊下のひんやりした空気が気持ちよかった。
ダンスの練習は順調に進んでいた。ユリアに言われた通り、花はダンスが得意のようだった。ピアノを標準まで練習するよりも、すんなりとダンスは上達した。ピアノは、合わないものをずっと無理に練習していたのかもしれなかった。
ユリアは発表会での主役を射止めて、ますますバレエの練習に身を入れているようで、なかなか落ち着いて会うことができなかった。ラシェッドともうまくいっているようだ。時々喧嘩をして、愚痴を聞いたけれど、それでも二人はすぐに仲直りした。
相変わらず父からの返事はなかった。もう一度手紙を出そうか迷ったけれど、何かが花を止めた。小松に特別なつながりを感じている一方で、父から決定打をうたれるのが恐ろしくもあった。
「花ー?」
廊下の角を曲がった時に、すれ違った誰かに名前を呼ばれた。立ち止まって、振り返る。花の体は、脳で理解する前に、きちんとこの声を知っているようだ。
「煌星」
煌星は機嫌が良いらしく、教科書を脇に抱えて、笑いながら花の方へ歩いてきた。
「どうしたんだよ、そんなに急いでさ」
「ううん、ちょっと。何でもないよ」
「ふうん。あ、そうだ。小松さんってどこにいるかな」
鈍い痛みが胸の奥に走った。
「小松さん?」
「あの端の音楽室かな?」
「小松さんに、用事?」
「ああ、ちょっと、話したいことがあって」
「あ、えっと、たぶん、そうだよ。ホールにいなかったら、この時間は、あの教室でピアノを弾いてると思う」
「そっか、サンキュ」
煌星はお礼を言うついでに、花の頭をぐしゃぐしゃとすると、踵を返した。教室がある方面へ、歩き出す。花は、髪の毛を整えるのも忘れて、叫んでしまいたかった。煌星を、引き止めてしまいたかった。コンパスの長い煌星は、スタスタと歩いて行ってしまう。わたしから、離れていってしまう。煌星が、いってしまう。
「煌星!」
花は思わず、離れてゆく背中に向かって、叫んでしまった。自分の声に驚いた。煌星は振り返る。
「んー?」
「あの、えーと」
「なんだよ」
「あの、あのね、」
「はやく言えって」
「あのね、」
「なに」
最初は面倒くさそうな、いつもの声で急かしたのに、花がまごついていると、煌星は優しく言った。なに。その声は優しかった。そこで、はっとした。何を言おうとしていたんだろう。呼び止めて、どうする気だったのだろう。煌星は困ってしまうだろう。花が悲しい恋をしたのを知っているから。
それに気づいたら、花は、何も言えなくなってしまった。
「がんばってね」
「ん? おう」
花は、その背中がどんどん小さくなってゆくのを見つめた。もう一生見られなくなってしまうとでもいうように、じいっと見つめていた。瞳がじんわりとして、あたたかいものがこみあげてくるのにも、気づかないくらいに。
花は、煌星を思い浮かべた。あの教室で、友達に聞かれた、あの時、煌星を思い浮かべた。あなたの言うとおり、あなたを思い浮かべてしまったのだ。真っ先に脳裏に浮かんだのは、ラシェッドじゃなくて、あなたの、そういう、やさしい目だった。やさしくわらう、あなたの姿だった。いつからだろう。花はいつの間にか、ラシェッドの癖の強いはねた黒髪ではなくて、煌星の黒髪を追っていたのだ。
授業が終わった後のがやがやとした教室。アリス、ターニャ、アレックスと花の四人は選考会に向けての打ち合わせを行っていた。曲や振り付けも大方決まって、練習日程などを相談していたが、やがて話は雑談にそれていった。
「ねー花、聞いてるの?」
「はい?」
花は間の抜けた返事をしながら、友人達を見上げた。なにやら、彼女たちは楽しい話題で盛り上がっていたらしく、その内容を振ってくれたらしい。けれど花が全然聞いていなかったので、呆れていた。
「もう、聞いてなかったの? 花は、おっとりしてるのねえ」
ターニャは頬杖を突きながらにこにこしている。
「ごめん、何だった?」
「だから、あの二人の中でどっちがタイプかっていう話」
「あの二人?」
「あの二人といったら、あの二人でしょう」
花は、ああ、と理解した。この議論は度々女子寮の中でも行われていた。いくども飽きることなく繰り返されてきたポピュラーな話題。つまり、ラシェッドと、煌星と、同学年の男子の中では、どっちがタイプか、ということ。
「やっぱ煌星かなあ。何より、ハンサムだし」
「わたしはラシェッド! 踊ってるときの彼って、最高じゃない?」
ターニャがのんびりした口調で言うと、アリスが身を乗り出し、アレックスが諫めた。
「ラシェッドはもうユリアのものじゃなかったかな」
「もう、思い出させないでよ! ああ、でも、そうなのよねー。本当、いつのまにって感じ。でもやっぱり、ラシェッドよ」
「煌星だって」
きゃっきゃとはしゃいでいる三人を、奇妙な気持ちで見つめていた。三人にとっては、野イチゴとプラム、どっちが好き? と同じレベルの話なのである。三人にはそれぞれちゃんと意中の人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。それとは別次元の話なのだ。忘れていたけれど、煌星も、ラシェッドも、女の子にとても人気があったのだ。煌星や小松とよく一緒にいたせいで、すっかり忘れていた。
「で、花は?」
彼女たちはひとしきり騒ぐと、ぐい、と詰め寄ってきた。
「えっと、えっと、わたしは」
花は口ごもったが、うまく切り抜ける方法を知らなかった。困ってしまう。
「花は俺だよな」
急に、後ろから聞こえてきた声に、驚いて振り返った。アレックス、ターニャ、アリス達も驚いたようで、気まずそうに顔を見合わせている。無理もないだろう、後ろには話題の渦中、煌星本人がいたのだから。
「だ、だれが煌星なんかっ!」
反射的にそう叫ぶと、煌星は「照れちゃって」と悪戯っぽく笑って、入り口付近で待っているラシェッドのところへかけてゆく。花は妙な拍を打っている胸を押さえた。すると、三人の視線が花に集まっているのに気づいた。
「な、なに?」
「花って煌星と仲良いよね」
「なんで? 最近急にじゃない?」
「それにさっきの。煌星って花のこと、好きなのかね?」
「私も思った。なんか、花には優しい気がする。煌星って普段、女の子にあんな風にかまわないもん」
「っちがうよ!」
ついつい、大きな声を出してしまった。三人は、少し驚いたよう見つめてきた。花はいたたまれなくなって、誤魔化すように言った。
「しばらく、忙しくなるね。次の練習までに、ちゃんと振り付け覚えてくるね」
そう言うと、不思議そうにしている三人の視線から逃れるように、テーブルを離れた。
だって、違うのだ。あれは、ただ単に反応を楽しむ悪ふざけ。それと。花にはわかったが、あれは、煌星の分かり難いやさしさ。煌星は花が答え難いと思って、ああやって茶化してくれたのだ。煌星は花がラシェッドを好きだったことをしっているから。
確かに、煌星は優しい。他の女の子よりも花に優しい。だけどそれに、特別な意味は無い。花がラシェッドに失恋してしまったから。だから、煌星は花に優しいのだ。
それにしても、どうして、それを残念に思っているのだろう。花は思わず、ため息をついてしまう。急に足場が崩れるような気がして、何かにしがみつきたくなって、自分の腕を握り締めた。
三人が、わたしに、誰がタイプかと、聞いた時、思い浮かべてしまったのは、誰。わたしは誰を思い浮かべた?
花は、煌星が話す、楽しそうな顔を思い出して、気分が沈んだ。それはいつだって、小松のことを話している時だった。
食堂で夕食をとったあと、花は女子寮へと戻るため二階の回廊を歩いていた。次第に寒くなってきて、陽が沈むと石造りの校舎はぐっと冷え込んだ。夕食に煮込み料理が増えたのはありがたかった。今日の夕食はビーツと野菜を煮込んだスープで、おかわりをして体をあたためた花には廊下のひんやりした空気が気持ちよかった。
ダンスの練習は順調に進んでいた。ユリアに言われた通り、花はダンスが得意のようだった。ピアノを標準まで練習するよりも、すんなりとダンスは上達した。ピアノは、合わないものをずっと無理に練習していたのかもしれなかった。
ユリアは発表会での主役を射止めて、ますますバレエの練習に身を入れているようで、なかなか落ち着いて会うことができなかった。ラシェッドともうまくいっているようだ。時々喧嘩をして、愚痴を聞いたけれど、それでも二人はすぐに仲直りした。
相変わらず父からの返事はなかった。もう一度手紙を出そうか迷ったけれど、何かが花を止めた。小松に特別なつながりを感じている一方で、父から決定打をうたれるのが恐ろしくもあった。
「花ー?」
廊下の角を曲がった時に、すれ違った誰かに名前を呼ばれた。立ち止まって、振り返る。花の体は、脳で理解する前に、きちんとこの声を知っているようだ。
「煌星」
煌星は機嫌が良いらしく、教科書を脇に抱えて、笑いながら花の方へ歩いてきた。
「どうしたんだよ、そんなに急いでさ」
「ううん、ちょっと。何でもないよ」
「ふうん。あ、そうだ。小松さんってどこにいるかな」
鈍い痛みが胸の奥に走った。
「小松さん?」
「あの端の音楽室かな?」
「小松さんに、用事?」
「ああ、ちょっと、話したいことがあって」
「あ、えっと、たぶん、そうだよ。ホールにいなかったら、この時間は、あの教室でピアノを弾いてると思う」
「そっか、サンキュ」
煌星はお礼を言うついでに、花の頭をぐしゃぐしゃとすると、踵を返した。教室がある方面へ、歩き出す。花は、髪の毛を整えるのも忘れて、叫んでしまいたかった。煌星を、引き止めてしまいたかった。コンパスの長い煌星は、スタスタと歩いて行ってしまう。わたしから、離れていってしまう。煌星が、いってしまう。
「煌星!」
花は思わず、離れてゆく背中に向かって、叫んでしまった。自分の声に驚いた。煌星は振り返る。
「んー?」
「あの、えーと」
「なんだよ」
「あの、あのね、」
「はやく言えって」
「あのね、」
「なに」
最初は面倒くさそうな、いつもの声で急かしたのに、花がまごついていると、煌星は優しく言った。なに。その声は優しかった。そこで、はっとした。何を言おうとしていたんだろう。呼び止めて、どうする気だったのだろう。煌星は困ってしまうだろう。花が悲しい恋をしたのを知っているから。
それに気づいたら、花は、何も言えなくなってしまった。
「がんばってね」
「ん? おう」
花は、その背中がどんどん小さくなってゆくのを見つめた。もう一生見られなくなってしまうとでもいうように、じいっと見つめていた。瞳がじんわりとして、あたたかいものがこみあげてくるのにも、気づかないくらいに。
花は、煌星を思い浮かべた。あの教室で、友達に聞かれた、あの時、煌星を思い浮かべた。あなたの言うとおり、あなたを思い浮かべてしまったのだ。真っ先に脳裏に浮かんだのは、ラシェッドじゃなくて、あなたの、そういう、やさしい目だった。やさしくわらう、あなたの姿だった。いつからだろう。花はいつの間にか、ラシェッドの癖の強いはねた黒髪ではなくて、煌星の黒髪を追っていたのだ。
