栂野さんはさっき、“ここに住みながら、うちで働いてもらう”と言った。


「うちで働くっていうのは……」


それは、家政婦として働くという意味……?

それとも…………?


「うちの医院で働くという意味だ」


「……」


医……院?


栂野さんの黒真珠の瞳が、ほんの少しだけ怪しく揺れた気がした。


わたしはなぜだか異常に心臓がドクドク波打ち始めて、言葉が発せず彼から目が離せなくなった。


“医院”なんて、いくらでもあるのに──。


「俺は、栂野歯科医院の副院長だ」


ドックン──

鼓動が大きく跳び跳ねた。


嘘……。

なんて偶然なの……?


助けて下さった方が、わたしが三年前に離れた業界の人だなんて……。


これがもし、歯科以外の科だったら……わたしがやることと言ったら受付や雑務等だろう。


だが、歯科なら……わたしが務めなければいけないことといったら……


「先週、歯科衛生士が一人やめて、探している最中なんだ。

──成田香乃。歯科衛生士として、うちに入ってもらう」


「……っ……」


首を………横になんて、振れるわけなかった。


かといって、トラウマを抱える今のわたしは大いに縦に振ることもできなかった。


だけどもう、やるしかない。


“あの出来事”から逃げちゃいけない。


これはきっとなにかの運命なんだ。


今目の前にいる、栂野さんに……いや、栂野先生に着いていく。


テーブルの下の一瞬震えそうになる手のひらを握りしめて、口腔内に貯まった唾液をごくんと飲み込んだ。


「栂野先生、これからよろしくお願いします」