「小説請負人ハマⅡ」
今日も、依頼があった。 今回の依頼は小さい頃の夢で歌手になって世界中を飛び回り、みんなに感動を与える人間になりたいという女性の依頼。
例のごとくあらすじをFAXした。
あらすじ
川田ミヨリ二十歳。職業歌手。 MIYORIは高校の時所属していた合唱部で歌う事の楽しさを経験した。 その経験が歌の世界に導く切掛けとなった。 しかし、MIYORIには性格上大きな問題があった。 それは他人と同じ事をするのが大の苦手という事。 MIYORIが歌の楽しさを知ると同時に独自の歌が作りたくなり、ギター片手に作詞作曲を手がけ、今ではレパートリーが五十曲を超えた。
そのどれもが完成度が高く、プロのアレンジを加えると歌謡史に残るのではと専門家先生のお墨付きであった。
でもMIYORIの意識は違った。 まだデビューもしていないのに夢の舞台は日本ではなかった。 そう、頭の中は世界を相手に歌っているMIYORIの姿。
結局、日本の音楽関係者からは「世間知らずの天狗少女」と相手にされず才能は埋もれてしまった。 だが夢を諦めないという強い意志のMIYORIはバイトでお金を貯め単身渡米した。
場所はミュージカルの本場ニューヨーク。 昼間はカフェで働き、夜はバーのウェートレスをしながら、あらゆるオーデションに応募するという下積み生活が三年続いた。
そんなある日の休憩中、店の裏でMIYORIはアドリブでギターを弾き、今の心境をバラード調で歌っていた。 そこにたまたま通りかかったのがプロデューサーのJ・キングだった。 彼は大物歌手を何人も世に出した凄腕プロデューサー。
「ねえ君、もう一度、今の歌をうたってみてよ」
MIYORIは要求に応え歌った。
じっと聞いていたJ・キングは歌い終わっても微動にしない。
MIYORIは「ごめんなさい。 私、休憩終わりだから行きます。 おじさん、聞いてくれてありがとうね……」その場から立ち去った。
J・キングは「この娘の歌には特有な波長が感じられる。 それは今まで経験した事のないもの。 世間に知らしめたい……」いつもの感がひらめいた。
彼はその衝撃を抑えきれなくなった。 その事が切掛けでMIYORIは夢のアメリカデビューが叶った。 そこからが怒濤の勢いで、アメリカ、ヨーロッパと瞬く間に彼女の歌は世界を駆けめぐった。 MIYOという愛称で世界の人気者になっていった。 日本でMIYORIを批難していた音楽関係者も、手のひらを返したように態度が豹変した。
「こんな内容でどうでしょうか?」とハマはFAXした。
先方から返信がきた「ありがとうございます。 内容に申し分ありません感謝しております。 ただ、最後は人気絶頂の中、白血病でMIYORIを他界させて下さい。 最後は伝説の歌手として終わりたいのです」
小説は製本され依頼者ミヨリに届けられた。 今日もまたハマのもとに一通の手紙が届いた。
僕は小林ヤスマサ。来年定年退職を迎えるごく普通の公務員です。 長年自分を抑えて組織に従ってきた何処にでもいる普通の公務員。 定年退職を迎えるに辺り、僕が若い頃夢見た職業に小説の世界だけでもいいので思いを叶えたいのです。
その夢とは芸術家。 僕は長年規則の中で生きて来ました。 規則から外れることを許さない世界。 その反動もあり自由な発想の表現者として芸術家を選びました。 結末はどうでもかまいません。 とにかく破天荒な自分を演じさせて下さい。
小林ヤスマサ
ハマは執筆に取りかかった。
あらすじ
K・ヤスマサ、年齢不詳、出身地不明、職業アーティスト。 作風は本人曰く「宇宙と風」
かつて岡本太郎は「どんなものにも顔がある」と表現した。
彼の場合「どんなものにも宇宙がある」
彼は東京世田谷の某大学を出たあと、叔父の薦めで世田谷区役所の勤務を三年勤めたが、性分に合わないと退職し、毎日、下北沢、渋谷、吉祥寺あたりで路上に自分の作品を並べて創作しながら販売するという生活をしていた。 K・ヤスマサの作風は自分でいうとおり宇宙を意識しているらしいが理解に苦しむ作品も多々ある。
右と左が○と□のメガネを作って「宇宙を見るメガネ」と言ってみたり、キューピー人形に鉄の鎖を巻き付け「悟り直前(宇宙即我)」と題し販売したりと、一般人のいや社会性の理解を超えた作風だった。 そんなK・ヤスマサにいつも優しく接していたのが竹内イクヨ。 彼女には特異能力があり希望者の顔を見て、その人に今一番必要な言葉を書で表現し販売するという書家でもあった。
イクヨの感応能力は学生の間では評判。 そんなイクヨはK・ヤスマサの一番の理解者。路上販売の生活が一年ほど続いた頃、何処から聞きつけてきた大手広告代理店からK・ヤスマサに作品のオファーがあった。 来年竣工予定の駅前ビルの玄関ホール前に「宇宙をイメージしたオブジェを置きたい」との依頼。
費用は材料費込みで三百万円。
K・ヤスマサにとっては思いがけない仕事の依頼だった。 その作品を期にK・ヤスマサの名前は徐々に世間に浸透し数年後には奇才K・ヤスマサと評され、世界的にも徐々にであるが有名になってきた芸術家のひとり。
だが本人は「……? 何かが違う。 何か解らないけど何処かおかしい」と眠れぬ夜が続いた。
悩み続けたある日「そうだ!まだ宇宙が見えてない。 僕の宇宙はこんなちっぽけな型には納まらない! 僕の宇宙は頭の中のその向こうに存在するはず、それが絶対の宇宙!」
そう言い残しK・ヤスマサは全ての依頼を断ってイクヨと旅に出た。
数年後、バルセロナの路上で東洋人のカップルが作品を展示販売していた。 女は色紙に筆字で○(調和を表現)を描き、依頼者の顔を見てその人にあった漢字を○の中に一文字書くというやり方で販売していた。
西洋人には「東洋の神秘」と評され受けがよかった。
一方男性はなん時間でも瞑想し、目を開けたと同時にいっきに金属の造形に取りかかった、その姿は西洋人には理解に苦しむものだったが、作品は安定感のある斬新さが受け、こちらも違った意味で評判がよかった。
そんな二人を地元では「オリエンタル・イリュージョン」と親しみを込めて評した。
ハマは依頼者にFAXした。
依頼者は作品に納得したが、ひとつ注文をだしてきた。
「作品のあらすじは了承出来ますが、イクヨの神秘性も随所に入れて欲しい」
との依頼がありイクヨの才能も含め小説は出来上がり製本され小林ヤスマサに送られた。
小説請負人ハマの仕事が雑誌に紹介され、数年後には、小説請負業という商売が日本にとどまらず世界的にもメジャーになってきた。 SF・恋愛・サスペンス・童話などなど多彩なジャンル専門の才能ある小説請負人が、職業として普通に受けいれられるようになった。
小説請負という職業のパイオニアはハマであった。
この形態のあり方を「ハマノベル」と称され世界の共通語とされた。
END
今日も、依頼があった。 今回の依頼は小さい頃の夢で歌手になって世界中を飛び回り、みんなに感動を与える人間になりたいという女性の依頼。
例のごとくあらすじをFAXした。
あらすじ
川田ミヨリ二十歳。職業歌手。 MIYORIは高校の時所属していた合唱部で歌う事の楽しさを経験した。 その経験が歌の世界に導く切掛けとなった。 しかし、MIYORIには性格上大きな問題があった。 それは他人と同じ事をするのが大の苦手という事。 MIYORIが歌の楽しさを知ると同時に独自の歌が作りたくなり、ギター片手に作詞作曲を手がけ、今ではレパートリーが五十曲を超えた。
そのどれもが完成度が高く、プロのアレンジを加えると歌謡史に残るのではと専門家先生のお墨付きであった。
でもMIYORIの意識は違った。 まだデビューもしていないのに夢の舞台は日本ではなかった。 そう、頭の中は世界を相手に歌っているMIYORIの姿。
結局、日本の音楽関係者からは「世間知らずの天狗少女」と相手にされず才能は埋もれてしまった。 だが夢を諦めないという強い意志のMIYORIはバイトでお金を貯め単身渡米した。
場所はミュージカルの本場ニューヨーク。 昼間はカフェで働き、夜はバーのウェートレスをしながら、あらゆるオーデションに応募するという下積み生活が三年続いた。
そんなある日の休憩中、店の裏でMIYORIはアドリブでギターを弾き、今の心境をバラード調で歌っていた。 そこにたまたま通りかかったのがプロデューサーのJ・キングだった。 彼は大物歌手を何人も世に出した凄腕プロデューサー。
「ねえ君、もう一度、今の歌をうたってみてよ」
MIYORIは要求に応え歌った。
じっと聞いていたJ・キングは歌い終わっても微動にしない。
MIYORIは「ごめんなさい。 私、休憩終わりだから行きます。 おじさん、聞いてくれてありがとうね……」その場から立ち去った。
J・キングは「この娘の歌には特有な波長が感じられる。 それは今まで経験した事のないもの。 世間に知らしめたい……」いつもの感がひらめいた。
彼はその衝撃を抑えきれなくなった。 その事が切掛けでMIYORIは夢のアメリカデビューが叶った。 そこからが怒濤の勢いで、アメリカ、ヨーロッパと瞬く間に彼女の歌は世界を駆けめぐった。 MIYOという愛称で世界の人気者になっていった。 日本でMIYORIを批難していた音楽関係者も、手のひらを返したように態度が豹変した。
「こんな内容でどうでしょうか?」とハマはFAXした。
先方から返信がきた「ありがとうございます。 内容に申し分ありません感謝しております。 ただ、最後は人気絶頂の中、白血病でMIYORIを他界させて下さい。 最後は伝説の歌手として終わりたいのです」
小説は製本され依頼者ミヨリに届けられた。 今日もまたハマのもとに一通の手紙が届いた。
僕は小林ヤスマサ。来年定年退職を迎えるごく普通の公務員です。 長年自分を抑えて組織に従ってきた何処にでもいる普通の公務員。 定年退職を迎えるに辺り、僕が若い頃夢見た職業に小説の世界だけでもいいので思いを叶えたいのです。
その夢とは芸術家。 僕は長年規則の中で生きて来ました。 規則から外れることを許さない世界。 その反動もあり自由な発想の表現者として芸術家を選びました。 結末はどうでもかまいません。 とにかく破天荒な自分を演じさせて下さい。
小林ヤスマサ
ハマは執筆に取りかかった。
あらすじ
K・ヤスマサ、年齢不詳、出身地不明、職業アーティスト。 作風は本人曰く「宇宙と風」
かつて岡本太郎は「どんなものにも顔がある」と表現した。
彼の場合「どんなものにも宇宙がある」
彼は東京世田谷の某大学を出たあと、叔父の薦めで世田谷区役所の勤務を三年勤めたが、性分に合わないと退職し、毎日、下北沢、渋谷、吉祥寺あたりで路上に自分の作品を並べて創作しながら販売するという生活をしていた。 K・ヤスマサの作風は自分でいうとおり宇宙を意識しているらしいが理解に苦しむ作品も多々ある。
右と左が○と□のメガネを作って「宇宙を見るメガネ」と言ってみたり、キューピー人形に鉄の鎖を巻き付け「悟り直前(宇宙即我)」と題し販売したりと、一般人のいや社会性の理解を超えた作風だった。 そんなK・ヤスマサにいつも優しく接していたのが竹内イクヨ。 彼女には特異能力があり希望者の顔を見て、その人に今一番必要な言葉を書で表現し販売するという書家でもあった。
イクヨの感応能力は学生の間では評判。 そんなイクヨはK・ヤスマサの一番の理解者。路上販売の生活が一年ほど続いた頃、何処から聞きつけてきた大手広告代理店からK・ヤスマサに作品のオファーがあった。 来年竣工予定の駅前ビルの玄関ホール前に「宇宙をイメージしたオブジェを置きたい」との依頼。
費用は材料費込みで三百万円。
K・ヤスマサにとっては思いがけない仕事の依頼だった。 その作品を期にK・ヤスマサの名前は徐々に世間に浸透し数年後には奇才K・ヤスマサと評され、世界的にも徐々にであるが有名になってきた芸術家のひとり。
だが本人は「……? 何かが違う。 何か解らないけど何処かおかしい」と眠れぬ夜が続いた。
悩み続けたある日「そうだ!まだ宇宙が見えてない。 僕の宇宙はこんなちっぽけな型には納まらない! 僕の宇宙は頭の中のその向こうに存在するはず、それが絶対の宇宙!」
そう言い残しK・ヤスマサは全ての依頼を断ってイクヨと旅に出た。
数年後、バルセロナの路上で東洋人のカップルが作品を展示販売していた。 女は色紙に筆字で○(調和を表現)を描き、依頼者の顔を見てその人にあった漢字を○の中に一文字書くというやり方で販売していた。
西洋人には「東洋の神秘」と評され受けがよかった。
一方男性はなん時間でも瞑想し、目を開けたと同時にいっきに金属の造形に取りかかった、その姿は西洋人には理解に苦しむものだったが、作品は安定感のある斬新さが受け、こちらも違った意味で評判がよかった。
そんな二人を地元では「オリエンタル・イリュージョン」と親しみを込めて評した。
ハマは依頼者にFAXした。
依頼者は作品に納得したが、ひとつ注文をだしてきた。
「作品のあらすじは了承出来ますが、イクヨの神秘性も随所に入れて欲しい」
との依頼がありイクヨの才能も含め小説は出来上がり製本され小林ヤスマサに送られた。
小説請負人ハマの仕事が雑誌に紹介され、数年後には、小説請負業という商売が日本にとどまらず世界的にもメジャーになってきた。 SF・恋愛・サスペンス・童話などなど多彩なジャンル専門の才能ある小説請負人が、職業として普通に受けいれられるようになった。
小説請負という職業のパイオニアはハマであった。
この形態のあり方を「ハマノベル」と称され世界の共通語とされた。
END



