(私いつもあんなにチェック漏らしてたんだ……瑞貴センパイが指摘してくれてたのなんてほんの一部。あれこれ言って私が混乱しないように気を使ってくれてたんだ……)


 ――高校受験を控えたちえりが涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら桜田家に身を寄せている。

”瑞希センパイィ……今から基本やってたんじゃ応用は解けないですよぉ……っグス……”

”おいおい、その発想はどこから来るんだ? 物事に近道なんて例外以外ありえない! 基本を知ってるやつのミスは最小限に留まるんだぞ?"

 彼のやり方がもっともなのはわかっていたが時間がない挙句に覚える量が多すぎる。ただなんとなく授業を受け、宿題をこなせば自然に身についていると思い込んでいたちえりは大幅に遅れをとってしまったのだ。
 そして、テストがあるたびに己の理解度の低さを身を以て感じていたにも関わらず、それを補おうとしなかった責任は自分にある。


(あのときも瑞貴センパイに寝る間も惜しんで教えてもらって……どうにか第二志望の高校行けたんだった……)

 高層ビルの合間から伸びる緋色のひかりが満ちて、あでやかな太陽が今日いちにち最後の輝きを存分に放っていた。
 金曜日の瑞貴もここからこの景色を見送っていたに違いない。

(私はもう仕事してお金貰ってるんだもん……毎日が受験くらいの覚悟でやらなきゃダメだよね)

 見習いなのだから瑞貴の力を借りるのはしょうがないかもしれない。だが、わからないからと任せきりにするようでは瑞貴の負担がいつまでも減ることはない。
 そう考えると自分はなんて酷いやつなんだろうと、申し訳なさから涙が溢れそうになる。
 そしてそのことに気づかせてくれたのは紛れもなく鳥居隼人だった。

 そもそも新入社員で、しかも”基礎知識を持たないちえりでも出来ること”を、瑞貴が選んで回してくれていた仕事なのだ。

「……最初から私に無理な仕事は回ってこない。だったら貰ったものは完璧にしなきゃっ……!」

 並みならぬ決意で記憶とノートを頼りに気合を入れなおすちえり。
 ハチマキこそないが、そこには日の丸を掲げた気分で、それこそ無我夢中になって取り組んだ。

 ちえりは、作成中のとある企業のホームページ動作テストをしているわけだが、もちろんそこに潜む誤字・脱字のチェックも含まれている。
彼女は額にアンテナを突き出しながら前のめりの姿勢でディスプレイを睨んでいる。

(……うん、言葉におかしいところはないみたい)

 仕様書へ何度も目を通し、それでも言わんとしてることがわからないなら、とりあえず先に進む。
 そしていくつかのチェックが終了してからもう一度立ち止まった場所まで戻る。そうすると意外と混乱した頭はスッキリしていて、日本語を素直に受け止められる頭になっているのだ。

(うーん……
”メールによる回答か、電話による回答か”のいずれかを選択。っていう言葉なんだから両方選べるのは、やっぱりよくないんだよね……)

「ここは修正してもらわなきゃ」

 ちえりは取り出した付箋へ詳細を書き込み、目立つように仕様書から顔を出させる。
 勘違いや思い込みというのはとても恐ろしい。
 いまやっていることはとても地味な作業に見えるが、作成する人とチェックする人の目がバラバラなのはとても重要なことだからだ。

 最初はあまり多くの文句をつけてしまうのは申し訳ないと思っていたものだが、それではチェックの意味がなくなってしまう。むしろ漏れたら大変なのだと瑞貴にもそう教えられていた。

「……私なんか初めから戦力外的要員で、瑞貴センパイが最後の砦って感じだったんだな……」

 瑞貴の並みならぬ責任からくる緊張と重圧。
 ちえりのこんにゃくのようなメンタルでは一瞬にして跡形もなく千切れてしまっているに違いない。

(それなのに皆に優しくて、私にも優しくて……)

「上に立つ人って本当に大変なんだな……」