青いチェリーは熟れることを知らない①

「えっと、まず会社を出て信号を直進っと……」

 スマホでマップを確認しながら、ものの五分で辿り着いた店の前。
 そこには店の外まで続く人の列があり、やはり昨夜の雨のせいで混雑しているものと思われる。

「……うーん、今度はちゃんと天気予報確認しないと……」

(でも傘持ってても足元は防げないべ……?
長靴最強だな、やっぱ!!)

 濡れたパンプスにはきちんと消臭&除菌スプレーをかけて玄関へ置いてきたが、やはり不安は残る。
 そしてここで瑞貴に買ってもらった大切な靴とスーツのひとつを下ろす羽目になってしまったのだが、"はて、おしゃれなOLさんたちはどうしているのだろう? "と、しばらく首を捻りながら列の最後尾へと並んだ。

「お次のお客様こちらへどうぞっ」

 休憩時間の何分の一かを消費すると、ようやくカウンターへ案内される。
 予想通り、会員登録が必要とのことで用紙に記入を促され、その間にトートバックごと女性店員へ手渡した。

(うっ……)

 ペンを取り、氏名を書き終えると次に待ち受けていたのは年齢の欄だった。
 空白にしてしまおうかと考えたが、店員に見つかって記入を催促されるのも恥ずかしい。なので仕方なく二十九の文字を小さく刻むと切ない吐息が漏れる。きっと三十になってしまえば何てことはないのだろうが、九年間お世話になってきた二十代とおさらばするにはまだ心の準備ができていない。

(……あ、あと十年くらい二十代でお世話になったりできないべか!?)

 二十代浪人を是非とも希望したいが、そんな窓口あるわけがない。
 そしてここで申請できるのはクリーニングの会員登録のみだ。

 ペンを持つ手を震わせていると、その様子を少し離れた背後から見つめるひとりの女性がいる。

「…………」

(もしかして……若葉さん?)

 整った眉間に皺を寄せ、知的美人な彼女が次に注目したのは店員が広げた男物のスーツだ。

(なんで男性用のスーツなんか……それにあれ、どこかで見覚えがあるような……)

 迫りくる魔の二十九歳と格闘中のちえりは、この時、背後で目を光らせている三浦の気配に気づくことができなかった。

「それではこちら会員登録特典の食器洗い洗剤となりまぁすっ! お仕上がりは――」

 若い声のわりに見た目は随分年上な女性店員が店に響き渡るような声で洗剤と伝票を手渡してくれる。

(ちょっと恥ずかしい……かもっ……!)

 小声で"お願いします……"とだけ伝え、逃げるように店を出る。
 貰った洗剤と伝票をトートバッグにしまいながら三浦とすれ違ったことにももちろん気づかない。

「撥水加工もお願いしたし、えっと……仕上がりいつって言ってたっけ……あ、じゃあ月曜日でいいかな」

――ぐーきゅるる……

「……お昼まだだった」

 切ない腹の虫が鳴いたところで、昼食を済ませていないことを思い出したちえり。虫が号泣する前にと早歩きをしながらコンビニを探す。すると……

『二十九日は肉の日! 安い!!』

『安い!うまい! 憎い(29)ね! 肉(29)!!』

 異様な主張を繰り返す黄色いのぼり旗が目に飛び込んできた。

「……っ!? きょう二十九日じゃないでしょっ!! ややこしいっ!!」

 ムキになったちえりはスーパーの前を小走りに駆け抜ける。

「はぁ……っはぁ……」

 しかしすぐ息切れしてしまい――

(こ、これが……二十九歳っ!?
ちがうっ!! ただ運動不足なだけなんだからっ!!!)

 再び意地で走り出したちえり。落ち武者のように髪を振り乱した彼女がようやくコンビニに立ち寄っている頃――