「なに慌ててんだよ」

 風呂上りの鳥頭はすっかり鳥頭ではなかった。しっとりと濡れた髪が完全に垂れ下がっており、雰囲気が少しだけ柔らかくなった彼はまた違ったイケメンに見える。

「み、瑞貴センパイもう帰って来るってっ……!」

「早いな。……まず口ゆすいで来いよ。泡立ってんぞ」

「ん、んぶっ……そうだった!!」

 鳥頭は首にかけたタオルで頭を拭きながら足元に纏わりつく"チェリー"を優しく抱き上げ、洗面所から戻ったちえりは扉の陰で洗いたての肌にぐっしょり濡れてしまったスーツを再び纏う。

「うん……センパイ行きたくなかったみたいなんだよね。私が変なこと言ったせいで……」

"……女性に恥かかせちゃダメですよ"

(……一番考えなきゃいけなかったのは瑞貴センパイの気持ちだったのに……)

 なんであんなこと言っちゃったんだろう……という後悔の気持ちと、引き留めていたらどう変わっていたんだろうという謎の期待が交差する。

「気ぃ使ってやったのに逆効果になってねぇといいけどな」

「逆効果……?」

「俺は"ついで"に誘われただけ、お前は"瑞貴センパイ"を参加させるための"ダシに使われた"だけだ。三浦の目的は更にその先だろうが、叶えば瑞貴先輩は有難迷惑ってわけ」

「あんた……"さん"くらい付けなさいよ……三浦さんって……」

(言われなくてもわかってる……三浦さんの目的は瑞貴センパイで、本当は私なんかついて来て欲しくなかったってことも……そっか、センパイのあの悲しそうな顔って"有難迷惑だ"っていう意思表示だったんだ……)

 そして淡々としゃべるこの男は、もしかしたらすべてを見越して参加していたのかもしれない。
 もしくは自分の上司にあたる三浦の願いが叶うよう、動いたとも考えられる。

 しかしどことなく腑に落ちない。こいつは"ついで"に参加してやるような懐の深い男なのだろうか?

(……っ、まさか……瑞貴センパイを引き留めるかもしれない私の引き留め役とか……!?)

「……っ……」

 一度そう思ってしまったちえりの目は、彼の優しさが嘘に見えてしまう。
 ふわふわで甘い香りのするタオルに、貸してくれたシャツ。さらにずぶ濡れになりながら買ってきてくれた歯ブラシセット。そして人見知りの激しいワンコの"チェリー"に会わせてくれたことが全部、全部――……。

「もしこんなことも自分で解決できねぇ男なら大したことないけどな」

「……あんたと違って瑞貴センパイは優しいの」

 長谷川を見習って、もう一度三浦への苦手意識をなくそうと考えていたにも関わらず、こうしてすぐ嫌な感情が芽生えてしまう。

「まぁ、せいぜい三浦になんかされねぇように脇を閉めてかかれよ? チェリーサン」

「なんかってなに?」

(っていうか、どういう行動を改めれば"なんかされない"状況になるのかわかんないし……)

「さぁな。……瑞貴センパイもう来るんじゃねぇの?」

「……っ、そうだったっ!!」

「……一応、ありがと……」

「…………」

 目も合わせず礼を言い、バッグを手に玄関へ向かったちえり。
 別れ際の彼がどんな顔をしていたかわからないが、頭の良いあいつなら自分の考えなど、とっくにお見通しかもしれない。無言で返されたのがその証ともいえるだろう。

 しかし、彼がなに思おうと今のちえりにはどうでも良かった。

(とにかくセンパイに謝らなきゃ……っ!)

 急いでエレベーターを呼びながら、ふと匂う自分の香りに冷静さを取り戻す。
 髪は生乾きになのでごまかせるかもしれないが、シャンプーやボディソープの香りが明らかに違うのは、もはや何の対処のしようもない。

「……だ、大丈夫……。近づかなければ大丈夫……」

 エレベーターを降り、エントランスのソファにそそくさと座り込んだちえりは、あたかも今までずっと座っていた風を装って足を延ばしてみる。

「わ、わざとらしいべか……」

 ドキドキしながら「さっきはどうしてたっけ……?」と体を動かしながらその場に待機する。
 すると……

「チェリー……っ!!」

(ドキーン!!
は、はやっ!!!)

 あまりに早い瑞貴の登場にちえりは飛び上がりながら、目の前に登場した美しい王子から目が離せない。ハァハァと息を切らせた彼は、先ほどのちえりのようにびしょ濡れの姿で顔に滴り落ちる雨を手の甲で拭っていたのだ。

「セ、センパイ……っなんでこんなに濡れて……っ!!」

「あ……車、渋滞してたっけから途中でタクシー降りて走ってきたんだ」

「えっ……!?」

 そう言われてエントランスの出入り口へ目を向けると、ガラスを激しく打ち付ける雨と風に驚いてしまう。しかしそんなことはどうでもないと軽く返され、再会できたことが本当に嬉しいとでもいうようにピュアな微笑みを向けられる。

「そんなに急がなくても……っ……」

 とたんに罪悪感の波が一斉に押し寄せてくる。
 鳥頭のもとでシャワーや歯磨きを済ませ、もしかしたらそのまま眠ってしまっていたかもしれないちえり。
 一方の瑞貴はちえりの一言で三浦を押し付けられ、望まない時間を過ごし、ずぶ濡れになって帰ってきた。

「ごめんなさいセンパイ……、ごめんなさい……っ……」

 押しつぶされそうな胸の前で拳を握りしめ、罪の意識から声が震える。それからのちえりは、すっかり自身の纏う香りやらを忘れ、指の先で蒼白い瑞貴の顔の水気を丁寧に拭き取った。

(……っ……センパイの顔、すごく冷たくなってる……)

「……っあ、謝るなって……、……っ!」

(あったかいな……チェリーのぬくもりだ……)

 ちえりの指先の熱にほっと安堵の吐息を漏らす瑞貴の頬にはうっすらと赤みがさしている。
 彼が目を閉じると長い睫の先から雨の雫が流れ落ちた。そして拭っても拭いきれない雨水にちえりの手もどんどん冷えて動かなくなっていく。

「……っ……」

(さ、さむっ……)

「あ、ごめ……っ! こ、このままじゃ風邪ひくよなっ! 部屋入ってあったまろうぜ!!」

 されるがままにちえりの指先を堪能していた瑞貴だが、冷たく鈍りだした手に気づき、あたふたしてしまう。やがてその手を握りしめた瑞貴はエレベーターへ向かって歩き出した。
 そして――

「……エレベーターが来るまでこうしてれば寒くないだろ?」

 ふわりと香った瑞貴のコロン。

「……え?」

 いきなり姿を消した彼に状況が飲みこめず、瞬きしていると――
 腹部に回された腕を見て、ようやく背後から抱きしめられていると気づいたちえりだった。