通常は午前九時から始業だが、今日は初日ということで早めの出勤となった。
 右も左もわからないちえりは瑞貴に付き添われながら総務課を訪れている。

「あなたが若葉ちえりさんね。専務から話は聞いてますよ。はい、これIDカード! で、こっちがネームプレートね」

「あ、ありがとうございますっ!」

 真っ赤な口紅をひいた中年で小太りの女性が、にこやかに"これがないと会社に入れないから毎日持ってきてね"と手渡してくれた。
 赤い紐の先にぶら下げられた透明なケースにそれらを重ねて入れ、首へかける。履歴書に貼られた写真がそのままネームプレートの若葉ちえりの名と共に並んでおり、もう少し映りの良いものを貼れば良かったと、ひどく後悔した。

(ずっとこれ残るんだべかっ!? こんなことに使われるなら写真屋さんに撮ってもらうんだっけなぁ……)

 半笑いな写真の中の自分に激しい脱力感を覚え、張り替える方法はないかと模索していると――……

『素材がそれなりなんだから、それなりにしかなんないっしょ!』

 と腹を抱えた真琴の声が聞こえて来そうで、思わず背後を振り返った。

「ん? どした? なにがっかりしてんだ?」

 目が合った瑞貴にプレートを覗き込まれ、体ごとプレートが跳ねた。

「み、み、瑞貴センパイッッ! 今日からお仕事なのって私だけだべかっっ!?」

 見られてたまるかっ! と俊敏な動きでプレートを裏返したちえり。どれだけ抵抗しても勤務時間になれば表に返すしかないというのに、自分でも無駄な抵抗だと激しく思い悲しくなった。

(……わ、私の写真映りが悪いのはホント、素材の問題なんだけどさ……)

「あぁ、チェリーと面接してた人たちはまだ先だけど、例外がもうひとりいるみたいだな。うちの会社は年に一度の採用だけじゃないから最近入社したやつも結構居るし、緊張しなくても大丈夫だぜ! 俺もいるしな!!」

「う、うんっ……! ありがとう!」

(……例外がもうひとり……やっぱりここで働いてる人の繋がりとかそういうので入ってきたんだべか?)

 そして"入社して二年間は赤い紐だから無理は言われないはずだ"と瑞貴は丁寧に教えてくれる。

(へぇ……紐にそんな意味あるんだ……人が多くて把握しきれないからかな?)

「瑞貴センパイは……黒?」

「うん、リーダーは黒。で、通常は三年目から青の紐、もしくはそれに相当する社員か契約社員だな」

(それに相当するってことは……頑張り次第で契約社員も青い紐になるってこと? ……でも私はそこまで目指してないしなぁ……)

 と、低レベルな視線で自分と青紐は無関係だと頭から切り離して周りを見渡すと。
 どこもかしこも綺麗に磨かれたオフィスが会社の品の良さを表しており、至る所に観葉植物が置かれた緑の多いこの空間では、降り注がれる日の光がクリーンなイメージに拍車をかけている。

(おしゃれなオフィスで働いてる人たちは皆おしゃれなんだべな……なんてったって東京だもんな……)

 ネイルもピアスもしていないちえり。面接を受ける際にダークブラウンに染め直した髪も室内ではほとんど黒に見えて、自分だけが浮いてしまわないかと不安になってしまう。
 仕事が始まる前から勝手に(オフィスブルー?)に浸っていると……

「あらあら~おはよう桜田君~」

 と、伸びのある優しそうな声に瑞貴とちえりは振り向いた。

「あ、おばちゃんおはよう!」

「お、っおはようございますっ!」

 光が溶け込んだような瑞貴の爽やかな挨拶に続いてハッとして頭を下げるが"おばちゃん"の姿が見当たらない。

「……?」

 ちえりがきょろきょろしていると、やがて光の中から小柄なおばさんが笑みを湛えながら自分よりも大きなゴミ袋を手にしてやってきた。頭にかぶった帽子には"フェニックス・クリーンサービス"と書かれていることから、同じ会社系列の掃除を担当されている方だとわかる。

 やがて笑い皺の中のつぶらな彼女の瞳が瑞貴からちえりへとうつる。

「あらぁ! 可愛い子じゃないのぉ~! 桜田君のコレ?」

 小指を立てながらウィンクした"おばちゃん"の仕草は"恋人"を表している。

「いや、この子は俺の妹の友達で、俺の幼馴染でもある若葉ちえりさん。よろしくな!」

「…………」

(……わかってるけど、否定されると胸が苦しい……)

 丁寧に間柄を説明する瑞貴に悪気がないのはわかるが、ちえりの心は激しくエグられ、勝手に精神的ダメージを負っていく。

「そうなの~? 若葉、、、ちえりちゃんね? 掃除のおばちゃんだけどよろしくね~」

 "おばちゃん"はゴミ袋を持つ手を腰に当てながら少し曲がった腰を伸ばした。
 その仕草に優しい瑞貴が"それどこまで運ぶの?"と手を貸そうとしているが、"これは空気しか入ってないのよぉ~!"と高笑いしている。

「こっこちらこそ、よろしくお願いします……!」

 一足遅れたちえりが慌てて頭を下げると、懐かしそうに目を細めた"おばちゃん"があたたかい眼差しで話しかけてくる。

「やっぱちっと訛ってるね~桜田君が来た頃とほんとそっくりだ~!」

 イントネーションの微妙な違いに気づいた彼女は、幼馴染だというちえりに入社したての桜田瑞貴を重ねているようだった。

「ははっ! そうだな。無理にとは言わないけど少しずつ標準語しゃべっていこうな?」

「……げっ! う、うんっ! じゃなくて……っはい!」

「……また先輩と後輩に戻っちゃったな、俺たち」

 畏まったちえりの言葉に眉を下げながら呟いた瑞貴に胸が苦しくなる。

"……真琴がずっと羨ましくてさ、なんで俺は年上なんだべって……"

「……っで、でも、それはここでだけですから……!」

「……ん、そうだな……」

 寂しそうな瑞貴をたしなめていると、"おばちゃん"はゴミ袋を引きずったまま"あとは若いもの同士頑張んな!"と、意味深な笑みを残して掃除へ戻ってしまった。