楽しい夕食も瞬く間に終わり、後片付けを済ませたちえりは静まり返ったリビングを覗く。

「センパイ?」

「…………」

 声をかけてみるものの瑞貴からの返事はなく、ベッドに座っているような気配も見当たらなかった。

(……あれ? どこ行っちゃったんだべ……)

 瑞貴を探してリビングへと足を踏み入れると、視界へ入ってきたのはベッドの足側へ頭を向けて横たわっている瑞貴の姿だった。
 無防備な体はシーツの海へと沈み、しっかりと瞳が閉じられていることから眠ってしまっていることが伺える。

「疲れてたよね、私のために朝からずっと動いてくれてたんだもん……」

 ちえりは長い睫が落とす影を見つめながらそっと髪を撫でた。
 しっとりと指先を抜ける極上の触り心地に混ざってほのかな瑞貴のぬくもりを感じ、この頬へ触れられたらどんなに幸せだろう――……と、その想いを胸に抱きながら口を開く。

「ありがとう瑞貴センパイ……」

 いまは好きという気持ちを感謝の言葉に変えて彼の体へ布団をかけた。さらに起こさないよう気をつけながら枕を頭の下へ。ふわりと香るシャンプーの匂いを自分も纏っているかと思うと胸が高鳴る。

「……っ!」

 抱き締めたい衝動を抑えながら一歩離れると、グラついた理性をなんとか立ち直らせることに成功したちえり。
 そしてまだ午後二十一時を過ぎたところだが、煩悩より理性が優勢に立つと自然と眠くなることがわかった。

「向こうに毛布あったよね」

 使われていない部屋の一角に真新しい一組の布団。
 なんでも瑞貴の実家から送られてきたものらしく、"タワーマンションに住んでるなら一度くらい呼びなさい!" と瑞貴・母の連絡と共にこれが届いたらしい。瑞貴はそれを何だかんだと理由をつけては拒み、未だに未使用のまま置かれているのだという。

 その話を聞いたちえりはどことなく納得してしまった。瑞貴と真琴の両親はとてもバイタリティのある人たちで、日帰りで飛行機の旅に出かけては夜遅くに帰ってきて翌日は疲れもみせず仕事へ出向く。
 そんな両親の頭では、息子の社宅が恐らく高級ホテルという認識となっているに違いないと瑞貴は言っていた。

 瑞貴に激しく同意したちえりは、ふと冷静になって考えた。

(……センパイのご両親もまだ泊まってないのに、私……お邪魔してよかったんだべか……)

 しかも一日お世話になるどころではない。恐らく、この会社にいる限り、もしくは……ちえりが社員となって別の部屋を用意してもらえるまで続くのだ。

(一度おばさんたちにもご挨拶の連絡しなきゃだね。いくら家族ぐるみの付き合いって言っても、家族じゃないし……)

 昔からお世話になりっぱなしの桜田家の面々を脳裏に浮かべていると、今朝の親友からのメールを思い出した。

「あ……そういえば真琴からメール来てたんだった……」

"おっはー! 都会の孤独な朝はどうだい? もう帰ってきたいだろ~? そうだろ~??? ってか! ちえりってば兄貴の会社の面接だったの!?"

 毛布のある部屋へ移動しながらポケットのスマホを取り出し、着信履歴から親友の真琴を呼び出すと通話ボタンをタッチする。

『――ふむふむ! それでいま兄貴の部屋にいるわけだね?』

「んだ(そう)、報告遅くてごめん」

『んにゃっ! イレギュラーなことは特別忙しいもんさね! それよか大丈夫?』

「ん? なに?」

 底抜けの明るさを持つ真琴の声を聞いていると、どんな苦しい状況下でも意外とそうでもないかも? と本気で思えて。
 なんでも話せる双子の姉妹のように過ごしてきたが、唯一話していないことがある。

『兄貴と会うのかなり久しぶりだべ? 気まずくなってたりしてないかなって思って……』

「ううん! 全然っ!! それどころか前よりもっと仲良くなれた気がして嬉しいんだ」

『ほっほー? まぁしばらくは仕事でいっぱいいっぱいだべ? 動きがあったらまた教えてくれたまえ!!』

「うん! わかった、また連絡すっから話聞いてな?」

『もっちろん! 都会の男どもは芋じゃないべ? 恋のはなし待ってから!!』

「あ、……そのことだけど……」

(どうすっべ……真琴は私が瑞貴センパイを好きだって知らないんだよね……)

 親友の兄を好きになってしまった手前、妹の真琴に相談するのは忍びない。
 真琴の性格上、応援してくれるに違いないが、あの瑞貴相手に万が一にも恋人同士になれるわけがない。断られる、もしくはギクシャクするくらいなら言わないほうがいい。
 
 そう思っていたからこそ言えなかった。

『なに? どしたの?』

 言いかけて口を噤んでしまったちえりに真琴が首をかしげる。

「……ううん、ごめん。なんでもないっけ……」

『……ふーん? じゃあ言いたくなったら言ってな?』

 さっぱりとした性格の真琴は深追いして狙撃するようなタイプではなく。いつでもちえりのタイミングを待って受け入れてくれる彼女の存在にどれほど救われたことか。
 
「うんっ! ありがとう、おやすみ真琴」

『おっやすみ~! ちえり愛してるよ~!!』

「あはっ私も愛してるよ真琴」

 名残惜しく感じながらも通話終了のボタンをタッチすると、いつも一緒だった親友の顔が頭から離れない。
 女子高に通っていた真琴は"愛してる"を素直に言える楽しい子だ。瑞貴に似た風貌でボーイッシュ、声もやや低めな感じが女子にはたまらないらしく高校時代は同性にかなりモテたと聞く。
 しかし彼女もまた彼氏ができても長続きしないタイプで、無理に男を探すよりもちえりと駄弁ってるほうがずっと楽しいという理由からフリーの時期がかなり長いのだ。

「これで隣に真琴が引っ越ししてきてくれたら完璧なんだけど……」

 "この部屋へ"ではないところが何とも浅ましい。
 せっかくスタートした瑞貴とのふたりきりの同棲生活は解消したくないため自然とそうなってしまう。

「って私、お世話になってる分際でなに言ってるんだべ……!」

 パチンと欲にまみれた頬を両手で叩く。

「痛った~!」

 ヒリヒリと痛む頬を撫でちえりはバッグの中からスマホの充電器を取り出すとコンセントに差し込んだ。
 赤いランプが付き、床に置こうとして。

「あ、お母ちゃんさメールしとかねど……」

 慌てて事の成り行きや荷物の話を簡潔にまとめると母親あてにメールの送信ボタンを押す。頼みごとにも関わらず、ついでのような作業になってしまい申し訳なくなる。

「……落ち着いたらちゃんと電話すっから、ごめんなお母ちゃん……」

 今度こそスマホを置いたちえりは次に部屋の片隅から毛布を取り出す。きちんとしたチャック付きのバッグにしまわれており、隙間から手を差し込むと極上の毛並みにうっとりとしてしまう。
 しかし難点がひとつ。

「これ……おばさんの趣味だべか……」

 真紅の模様が描かれてると思いきや、それは一面に咲く薔薇の数々だった。
 縁取りは落ち着いたワインレッドで"出来ればこれで統一して欲しかった……"と心の声が漏れる。

「へ、部屋あったかいし毛布一枚で十分だべ、あとは枕!」

 両手に毛布と枕を抱えたちえりがリビングへ戻る。照明をギリギリまで落とした室内でも動くことに支障はないため、そのままソファへ向かった。そしてふかふかな毛布に包まれながら枕に頭を載せると、手元のリモコンで室内の電気を消灯。

(……おやすみなさい瑞貴センパイ……)

 この夜は自然と眠りに落ちていったちえりだったが――……

「…………」

「……ん」

 眠りが浅くなり始めた早朝。覚醒しつつある意識で寝返りをうったちえり。

(……いま、なんじ……?)

 二度寝で危険な目にあったことのある彼女は一度目を覚ますと時間を確認する癖がついてしまった。
 いつものように枕元に手を伸ばすが、皮のような冷たい感触が続くばかりだった。

「……?」

 頭を持ち上げてスマホを探す。しかし半開きの瞳はそれらしいものを発見することができなかった。

「……へ?」

 違和感に上体を起こしてみると。

「……っ!?」

 同じくL字型のソファの角部分へ頭を向け、体を横たえた男の姿があった。

(……だ、誰っ!?)

 目を見張り、そっと顔を覗きこむ。

「み、瑞貴センパイッ!?」

 思わず彼の耳元でそう叫んでしまった。すると、身じろぎした瑞貴。

「…………」

「……んー……?」

 ややかすれ気味の声がなんとも色っぽい。昼寝とは違い、深寝のあとのまさにそれだった。

(ど、ど、どうしてここにっ!?
ベッドの上で眠ってたはずじゃっっ!!)

「ん……、どしたチェリー……」

 枕もなく、毛布もかけていない彼がうつろな眼差しでこちらを見つめている。

「……どしたって……センパイ風邪ひいちゃいますよ!」

 ドキドキとうるさい鼓動を抱えたまま、寒そうに丸まる彼の体に自分の薔薇の毛布をそっとかける。

「……毛布あったか……チェリーの体温だな、これ……」

 ははっと笑った瑞貴はそれを堪能するように顔の半分まで包まる。

「……えっ!? あっ……!!」

 とたんにちえりの羞恥心に火がついた。
 まさかそんなことを言われると思わず、そして毛布を奪うわけにいかず……恥ずかしさに顔を覆う。

 そして瑞貴から目が離せない。
 薔薇の毛布を纏った彼はまるでヨーロッパの貴族のようだ。

(薔薇のマントがあるかわかんねぇけど……
なんて似合うんだべっ!!!)

 思わず写メに収めたくなるほどに美しかった。

「って、スマホどこだっけ……あ! 向こうの部屋だ……」

 とりあえず瑞貴を眺めるのは時間を確認してからにしようとリビングを出た。スマホのもとへたどり着くとランプは緑になっており、充電が完了していることを知らせている。

 そして時間を見ると午前五時十五分。なぜこんな時間に目覚めたのだろうと記憶を呼び覚ますと、昨夜の早寝のためだと思い出した。

「瑞貴センパイはもう少し寝かせてあげよう……」

 自分と違ってリーダーという立場のある彼は多忙な毎日を過ごしてるに違いない。
 いくら早く眠ったからと言って、瑞貴の夜は長いのだ。
 
 なるべく音をたてないようリビングへ戻ると、薔薇の毛布に包まれた彼が穏やかな寝息を立てていた。

「……いつの間にここさ来たの? センパイ……」

 普段の彼を知らないため、もしかしたらソファで眠る習慣もあるのかもしれない。
 だからこそ、過剰な期待や反応をしてはいけないと思いつつも……