自炊は"あまりしていなかった"という瑞貴だったが、ある程度必要なものは揃っている。けれども鍋や炊飯ジャーはほとんど使われた様子はなく新品同様の輝きを保っていた。
 ちえりはまず先に時間の要する炊飯に取りかかろうと足元にある米の袋へ目を向けると、地元産の銘柄ではないパッケージが視界に飛び込んできた。
 
(あ……)

 地元産の米ではないというだけで遠くへ来たのだと実感するにはあまりに些細なことだったが、家から離れたことのないちえりは恐らく早いうちにホームシックになっていたに違いない。

「……センパイが居てくれて本当に良かった……」

 見知らぬ土地で知り合いがいるというのはどんなに心強いか。
 しかもその知り合いというのが兄妹のように幼い頃から共に過ごし、初恋の相手でもある桜田瑞貴なのだ。

「……運命と偶然だったら……、やっぱり偶然なんだろうな……」

(瑞貴センパイはどう思ってるんだろう……ううん、違う。そう考えるだけセンパイには迷惑だよね……)

 ちえりは小さく首を振りながら寂しさを紛らわせるように二合分だけ米を研ぎ、少しの間炊飯ジャーで眠らせておく。その間、まな板や包丁を取り出して野菜を切っていると、ふと冷静になった頭は考えた。

「瑞貴センパイはどんなの作るんだべ……」

 そこまで突っ込んだ話は真琴にも聞いたことがないため、瑞貴の腕前はわからない。作ってくれたうどんはとても美味しかったが、おかしな人物の登場で腹が立っていたので堪能する余裕はあまりなかった。

「料理人並みの腕前だったらどうすっぺ……!!」

(偉そうに手料理なんか作って私ってば――っ!!)

 いまさらに後悔してももう遅い。やりかけを放置するほど愚かな行為はないと思っているちえりは、いまやるべきことを夢中でこなしていくことにした。

(箱に書いてある通りに作れば、まずまず美味しいはずっっ!!)

 先ほど適当に買ってきた食材を袋から出し、カレー箱の裏面をまな板の傍のベストポジションへセットした。念のため一通り作り方へ目をとおし、オリーブオイルを垂らした鍋へ手早く切った野菜を炒めてから肉を投入する。火が通ったそれらは香ばしい匂いを放ちながらその身を色づかせていく。そして分量通りの水を入れ、野菜が柔らかくなるまで煮込みながら灰汁をとった。

「あとはルーを入れて、と……。んー……」

 弱火にしながらかき混ぜていると、カレーの良い香りに包まれ嗅覚を満たすが、視界的に色味が足りないと感じたちえりは他に何かないか探すことにした。

 そして棚を開くと――……

「あ、これでサラダ作れそう!」

 自分が好きなものは覚えるのも早かった。しかし、味がイマイチなため、どうしたら良いものかと母親に聞いたことがある。

『ね、お母ちゃん……なに足りないんだべ(何足りないんだろう)? 味がぼやけてんだけど……』

『んー? あ~これね、塩足りねぇんだば(塩足りないんだよ)!』

『塩でそんな変わる?』

『変わる変わる!! ちえり気ぃつけな? 足りねぇんなら足せばいいげど、多すぎたら大変だがら』


「んだ、味見しながら調整だ」

 マカロニを茹で、その間にレタスを刻む。そこへほぐしたツナ缶を入れながら時折カレー鍋をかき混ぜる。そしてゆで上がったマカロニを湯切りし投入する。そして塩コショウで味を整えながらマヨネーズを入れて再び和えた。

「よしっ! あとは瑞貴センパイ待つだけだ~!」

 綺麗なガラスの器に盛り付けたサラダもなんとか様になっている気がする。
 初めて好きな人に食べさせる料理にしては、飾り気がないが、そんなに時間もないため致し方あるまい。

 うんうん、と自分に満足しながら器を運ぼうと手をかけると――

「おっ! 完成か?」

 と、ベッドの上に腰掛けている瑞貴が瞳を輝かせながら立ち上がった。

「へ!? ……センパイ、いつから、そこに……っ!?」

「ん? チェリーの様子が気になったから早めに……んでもブツブツなんか言ってたし、邪魔しちゃ悪いって思って声かけねっけんだ」

 そういう彼の肩にはタオルがかけてあり、髪はまだ濡れているようだった。そしてどことなく顔が赤い気もする。

「……な、なんだべーっ!! ……あ、えっと、ほらっ!! 風邪ひくと悪いから髪乾かして来てけろは(ください)!!」

(どっから聞かれてたのっ!?)

「でもカレー冷める前に食いたいなー」

 なぜかキッチンまで歩いてきた瑞貴はこちらから目を逸らすことなく優しい笑みを向けてくる。

「……っ! センパイが戻ったら……ちゃ、ちゃんと温めますから……!」

 瑞貴が言い終える前にちえりが捲し立てる。

(ぎゃぁああっ!! 王子様スマイル!!)

 色素が薄い彼が微笑むと、目に見えぬスポットライトが四方八方から瑞貴を照らしているように見える。
 その柔らかい雰囲気がまた凡人の領域を超えており、知らず知らずのうちに見惚れてしまう。

 意識的に目を逸らしたちえりは弱火にしていたカレー鍋の火を止め、小皿を用意しながらもう一度瑞貴へ言葉を紡ぐ。

「……っね、センパイ! ご飯もうすぐ炊けっけど、少し蒸らさなきゃ!!」

「……ん、」

 彼は頷いたものの、どことなく寂しげで。
 まるで叱られた子供のように眉を下げ、とぼとぼと部屋を出て行く。

(その瞳で見つめられたら、私の手が誤作動起こしかねないんですセンパイッ! 追い出すような真似してごめんなさい!!)

 ピーピー

 炊飯器から音がして、ご飯が炊けたと知らせが入る。

「グッドタイミング!! 今のうちだべ!!」

 彼が戻る前にとサラダや皿を並べ、飲み物を用意していると――……

「チェリーただいま……っ!」

(……は、はやっ!!)

「センパイ……っおかえりなさい!」

 なぜかすぐそこからやってきたのに息を弾ませている瑞貴。そして彼が座った場所はまたテーブルではなくベッドだった。

「俺もう待ちきれねぇんだ~!」

「じゃあ! カレーよそってくるからって……半分くらいでいい?」

「ん? 普通に食うぜ!!」

「……大丈夫?」

「もちろん!!」

 カレーやサラダ、煮物などもっとそうだが、それぞれ家庭の味というものがある。
 そしてそれで苦しむのは結婚や同棲など異性間の問題で、その境界線を重視する者の中には妥協できず衝突もあると聞いたことがあった。

(味が許せないから出て行けって……言わんねようにすねど(言われないようにしないと)…………)

「……っ!?」

 ちえりは、とあることに気づいてドキッとしてしまう。なぜなら自分はまさに"実家の味"を忠実に再現しようとしていたからだ。

「うちの家、味濃いとかだったらどうすっぺ……」

 サァー……と血の気が引く感じがした。

(で、でも……っカレーなら家庭の味なんて……)

「ぶっ!! 瑞貴センパイんちって何のカレー使ってたっけ!?」

 ハッと凄い勢いで迫ってきたちえりに瑞貴は首を傾げている。

「……わかんねぇけど、なんで?」

「ご、ご、ご家庭の味がおありなのではないかと思ってですねっ!?」

「チェリーんちは?」

「う、うちはたしか……"毎日がカレー日和"っっっ」

 安くはないが、決して高くはない。
 素人が作ってもそれなりの味になるのはどれか!? と、母が色々研究した(食べ比べただけ)結果、ここ数年それで落ち着いていた。

「あぁ! あの……毎日食べても飽きないカレー♪ 今日も明日もカレー日和♪♪♪ ……ってやつか!」

 CMに出演するタレントが変わろうとも、歌だけは変わらない耳に残るフレーズを口ずさんだ瑞貴。

「あははっ! そうそう! それですっ!」

 手を叩きながらひとしきり笑っていると……あっ! と声を上げた瑞貴が口を開いた。

「うちはプラチナカレーだったかも」

「……っ!!」

 聞いてその名の通り、一流ホテルシェフが発案したという高級カレーのルー。
 "毎日がカレー日和"のおよそ五倍も値が張る超高級な代物で、味が同じなわけない。

「ごめんなさい瑞貴センパイ……私勝手に選んじゃって……」

(パスタの麺もちゃんと聞けばよかった……あ、あとあと……食器洗いの洗剤も、お洗濯の洗剤も……柔軟剤も…………)

 ぐるぐるとまわる色々な事柄はもちろん家主である瑞貴に合わせて当然なのだ。

「チェリー?」

 急に表情の陰ったちえりへ瑞貴が近づいた。

「なんだ? ……どした?」

「……おっ、お口に合わなかったら残してくださいねっ……」

 フラフラと瑞貴をかわしたちえり。
 機械的によそわれたカレーと白米はとてもおいしそうに艶を放っているが、それに添えられているはずの笑顔がない。

「…………」

ベッドの上でじっとそれを見つめていた瑞貴の瞳が今も俯いているちえりへと向けられて。

「なぁチェリー」

「…………」

「チェリーは俺の生活ば乱したくなくて悩んでんのか?」

「……はい」

「なら、笑って?」

「……え?」

 ようやく顔を上げたちえりに瑞貴が微笑む。

「俺がチェリーをこの家さ招いたんだ。お前の手作りだからこそ俺は食べたいって思うし、俺の料理もお前に食べて欲しい。味の違いだって、チェリーの一部を感じられた気がして俺は嬉しいよ」

「……っ!?」

(……わ、わ、わたしの一部を、感じる――っ!?)

 目を真ん丸にして衝撃を受けて立ち尽くしているちえりへ向かって歩きながら瑞貴は続ける。

「だから合わせようとしなくていい。どうしてもの時はきちんと話すべ、……な?」

 優しく言いきかせるように瑞貴が額をコツンと合わせてくる。

「……セ、センパイ! ……っえっと……!!」

 柔らかな彼の髪が頬をかすめ、ビクリと肩を震わせたちえりの体温が一気に上昇してしまう。

「なに?」

 小さく笑いながら聞き返した瑞貴の頬もほのかに赤く、それを見たちえりの顔にも笑みがこぼれる。

「私、色々やらかすかもすんねけど(しれないけど)……公私共々よろしくお願いいたしますっっ!!」

「こちらこそ。なんかあったらまず俺さ相談。約束してな?」

「う……うん、はい……っ……」

「チェリーから笑顔が消えたら俺の責任。俺の笑顔が消えたら……」

「ふふっわかりました」

「よしっ! じゃあ早速チェリーのカレー食おうぜ!」

 ちえりの笑顔を見て頷いた瑞貴はまたベッドへと戻ってしまう。なんだか避けられているようで心苦しいが、きっと彼ならその訳をいつか話してくれるだろうとその想いは胸に閉じ込めた。
 目の前では"いただきます!"とスプーンを持ち直した瑞貴が瞳を輝かせながらカレーを口へと運ぶ。

「うまいぜチェリー!! 俺おかわりすっから! 残しておいてなっ!!」

「う、うんっ! いっぱいあるから!!」

 すでに平らげる勢いでカレーを食す瑞貴に笑みが止まらない。
 子供のようにはしゃぎながら、ちえりが片手間で作ったサラダも"美味い!"と言いながら勢いよく流し込んでいる。

 瑞貴の言葉や動作ひとつひとつに胸がキュンと熱くなり、眠らせていたセピア色の想いが色づいてちえりの内側をくすぐり始めた――。