午前中はあっという間だった。 
 とにかく居場所がない私は特別室のような場所に通され、黒い革張りのソファへポツンと腰をおろした。

 床は防音対策としてなのか、カーペットが一面に敷き詰められており、その行く先を目で追うが……どこまでも続く向かい合った会議用? の重厚そうな木目の長テーブルと、ドッシリと構えたソファ。

(これって飛行機のファーストクラスとかで使われてるのと同じんねべね(同じじゃないよね)……?)

 肘掛部分にリクライニング機能でもあるのではないかと、ちえりは身をかがめてソファを調査し始めた。

「……ひとついくらだべ(ひとついくらだろう)……一個あればベッドと兼用でいけんのんね(いけるんじゃない)!?」

 ちえりは腰かけていたひとつのソファから部屋全体へと視線を戻すと、高級ホテルの会場を思わせるほどに広大な一室に改めて舌を巻く。そして一定の間隔で飾られた花々は、名のある流派の先生様が活けたに違いないというほどに独特な世界観を放っており、凡人のちえりにはただひたすらに眩しい。

 少し前の自分だったら"あ~ここさ住みたい!" と本気で叫んでいたかもしれない。しかし、そう思わないのは――……

「……瑞貴センパイと今日から同棲かぁっ! いきなり一緒のベッドに入っちゃったりしてっ!?」

"どうすっべ(どうしよう)!" と赤く色づいたさくらんぼのように頬を染め、自分自身を抱きしめていると――

 ――キィ……

 聞き逃してしまっても仕方ないほどに小さな音が耳に届く。
 例えるならば、映画館に設置されている消音性を究極の域にまで高めたような扉が開閉するときの音だ。ちえりは「……気のせいかな?」と思いながらも音がした方向へ目を向けると、すでに部屋の中へ侵入していた人物が満面の笑顔で駆け寄ってくる。

「チェリー! 半休もらったからお前の買い物いこうぜ!!」

「……センパイッ!? ……って、えっ!? お仕事大丈夫ですかっ!?」

 隠しごとがあると必要以上に大きな声でしゃべってしまうのは万人に共通しているのだろうか?

(……さ、さっきの独り言、聞かれてないよねっ!? 見られてないよね……っ!?
それにしても静かすぎる扉! 危険すぎるっ!!)

 高級品や本物のセレブは"立てる音が静か"だという思い込みが定着しているちえりは、あながち間違ってはないことを確信する。

(……生活音が大きいお父ちゃんを下品と言い切るのは娘として複雑だけど、苛々するのは肉親だからだべかっ……!)

 しかし、瑞貴が出す声の大きさや音は何故か心地良い。
そう……まるで犬がはしゃいでいるときに駆け回る楽しそうな声と爪の音とそっくりだ。

――聞いているこちらまで心があたたかくなるような……そんな心地良い旋律なのだ。

 上層階からエレベーターに乗る人はそれほど多くない。
それに加えすでに昼休憩が始まっているのもあるが、エレベーターの数が圧倒的に多いため、さほど邪魔されることもなく会社の脱出に成功したふたり。

 ちえりの大きなバッグを持った瑞貴は、高く昇る太陽に目を細めながらキラキラした子供のままの笑顔をこちらへ向けてくる。

「俺が住まわせてもらってる社宅結構近いんだぜ!」

「と、都会の人の近いってどれくらいなんです?」

 ちえりたちの住む田舎では車移動が当たり前だった。
 なので車で何分と例えてもらえれば、だいたいの距離がつかめるのだが……

「歩いて十五~二十分くらいだぜ!」

あ……、歩きでもだいたいわかった。と、内心ホッとして。

「……っ!? こんな高層ビルがいっぱい立ち並ぶ場所に社宅があるんですか!?」

「ん? ……あ、チェリーはまだ知らないっけ?」

「は、はい?」

「このあたりのビルって全部うちの関連会社でさ、敷地も買い占めてるもんだから社宅も作っちゃいましたーみたいな感じらしいんだ」

「……へ?」

 あまりにも突拍子もない発言にちえりの目が点になる。

(私ってとんでもないとこ受けちゃったの……?
ってか瑞貴センパイがそこに就職してリーダーって……本当はとてつもなく凄いことなんじゃっっっ!?)

(あわわっっ!!)

 いまさらに驚愕し、場違いなところに来てしまったのだと瞳を白黒させるちえり。そして改めて認識したのは、いかに彼が優秀であるかということだった。
 そんなちえりの心に気づくことなく瑞貴は話し続ける。

「たぶん買い物もこのあたりで済ませられっから遠出すねたって(遠出しなくても)……」

「ぶっ!! お前昨日ちゃんと眠れねっけのか!? なんて顔してんだず!!」

 瑞貴の楽しそうな笑い声が響く。
 それから魂が半分抜けかけたちえりは瑞貴に先導されながら数日分の衣類や日用品をまとめて購入し、適当な食材を調達しながらいよいよ社宅へと向かう。

(瑞貴センパイに全部お金出してもらっちゃった……。
そっか、そうだよね……私を面倒見てくれるのは会社でだけって思ってたけど……)

 そう考えると手離しで喜べない。なんでも軽く引き受けてくれた彼の笑顔の裏では瑞貴の力が大きく働いていることを強く感じる。

「あ、ごめんチェリー……俺の内ポケットからカードキー出してけね(出してくれない)?」

「……え? あ……う、うん!」

 今でもちえりの荷物を両手に抱えている瑞貴は嫌な顔ひとつせず、前かがみになりながら"ここのポケットね"と低く構えていた。

「失礼しま、しますっ!」

 直接肌を触るわけではないが、その体温が間近に感じられ……ちえりの良からぬ妄想を掻き立てる。

(あ……内ポケットあったかい……っ……み、瑞貴センパイの体温だっ!! ひゃーっ!!) 

と、照れながらも興奮に鼻息荒く顔を近づけてしまう。

すると――……

「痴女発見」

 あからさまな蔑みを含んだ声がちえりの背中に突き刺さる。都会に出てきて初めて浴びせられた発言なだけにちえりの耳はしっかりとその声質を刻み込んだ。

(……あれ? でもどこかで聞いたことのあるような声……?)

かすかに聞き覚えのある声だったが、男の声の調子が違うせいでその時のちえりは気づかなかった。

「はぁっ!? 誰が痴女よ!! 変なこと言わないでくれる!?」

(そ、そりゃあ……ちょっとは瑞貴センパイを堪能しちゃったりしなかったりしたけど……)

 怒りと羞恥度マックスで振り向いたちえりの視界に飛び込んできたのは――
 まるで狼のような野性的な瞳がこちらをじっと見据えている。そして印象的な髪型もウルフカットと呼ばれるワイルドな無造作ヘアが一段と男らしさに拍車をかけており、狼男と呼ぶにふさわしいイメージを受けた。

(げっ……ちょっとカッコイイじゃないっ……)

 イケメンは瑞貴しか知らないちえりにとって、それは未知なる扉を開け放つくらいの発見だった。

「なら……
鼻息荒くして男の胸弄(まさぐ)る女は他に何ていうのか聞かせて貰いたいね」

「わ、私にだってちゃんと名前が……っ……!」

 思わず意気込んだちえりが男に向かって一歩踏み出すが、ふと肩に心地良い重みが加わり、瑞貴が前に立ちはだかった。

「彼女は若葉ちえりさんで大切な人なんだ。痴女に見えても痴女じゃないってことは俺が保障する」

(えぇっっ!! 瑞貴センパイにも痴女に見えてるのっ!? 私っ!!)

 それはそれで瑞貴の言い方に衝撃を受けたちえりは、酸素を欲しがる鯉のように口をパクパクさせたまま氷つく。そのまま酸欠で倒れてしまいそうなほどに息苦しさを感じながらふたりを見守っていると――

「大切な人ねぇ……」

 ワイルドなウルフカットにドキリとする部分を繰り返され、ちえりの心と眼差しは瑞貴に釘付けになる。

(そ、そうだっ……今、瑞貴センパイ……私を大切な人って……)

「私情にかられて仕事がおろそかにならないように頼みますよ? 瑞貴先輩」