青いチェリーは熟れることを知らない①

「え?」

 いまも同じ部屋で過ごしているのだから、場所が変わるだけの話でどうってことはない……などと簡単には片づけられない。瑞貴の部屋以外でも一緒に寝泊まりするというのは、ちえりにとって想い合った恋人同士のプチ旅行のような気がしてしまうのだ。

(そ、それってつまり……和室に隣同士に布団並べちゃったりするんだべかっ……っ!? ……じゃ、じゃなくて!!)

「先輩にご迷惑掛けられませんから、その……旅館に泊まるのは私だけでっっ!」

「……ん? 旅館?」

 ちえりの脳内映像を理解できていないイケメン王子は微笑みながら小首を傾げているも、真っ赤な顔で否定する可愛い幼馴染を見てなにか閃いたようだ。

「あ……」

「旅館……っ!! じゃ、なくって!!」

「どったのちえりっち、羊羹って? そんなに食べたいなら買ってこよっか?」

 両手を広げて首を振っていたちえりの視界の端に現れたのはカセットコンロをテーブルの上に設置していた長谷川だった。

「ぷっ」

 笑いがこらえきれない様子の瑞貴は顔を背けながら噴き出している。 

「……あ、えっと……ですよね~! 羊羹食べたいけど、それは次回でいいかな~……」

 ちえりの活舌が悪いせいか、ちょうどよい聞き間違いをしてくれた長谷川に冷や汗が止まらない。
 なんたってここには"あの三浦理穂"がいる。恐る恐るキッチンに立つ彼女を横目で確認すると、すぐ傍までやってきていた三浦の表情に背筋が凍る。

「っ!! み、三浦さんっっ!!」

(……き、聞かれた――っ!?)

 パニックになったちえりが無謀な弁解をしようとしたところで、口を開いたのは三浦が先だった。

「……若葉さんいまごろ手伝うとか言わないでちょうだいね。下ごしらえは終わったわ。それと美雪はそこをどいてちょうだい」 
  
 そういう彼女の後ろには、いつの間にか三浦の手伝いへと回っていたもうひとりのイケメンが無表情のまま具材の入った土鍋をもって突っ立っている。

「ああ、ごめん。片づけは俺たちがやるから」

「ですですっ!! 私たちがやらせていただきますっっ!」

(センパイ、俺たちって言ってくれた……それって私のことだよね?)

 こういう些細な括りに入れてもらえるのが嬉しいというのは片想いあるあるかもしれない。仕事以外の共同作業は特に、自分が嫌なひととはやらないイメージが強いちえりは必要以上に歓喜している。
 目の前では鳥居から土鍋を受け取った瑞貴がカセットコンロの上にそれを置いから飲み物の準備を始めた。浮足立つ気持ちを懸命に抑えながらあとに続こうとしたちえりへまたも余計な一言が頭上から落ちてきて……

「いいえ。瑞貴先輩は物資調達資金のほとんどを出してくれたんですから……片づけは"羊羹"がやりますから結構です」

「よ、ようかんっ!?」

 ギロリとこちらを睨んだ鳥居に全力否定したくなったちえりだが、羊羹と旅行の聞き間違えだと弁解した暁には天変地異が起こってしまうかもしれないため大人しく頷くしかない。

「……あははっ、羊羹が喜んでやらせていただきマス……」

 これ以上墓穴を掘る前に悔し涙を拭う素振りをしながら瑞貴を追いかけて人数分のグラスを選びに走った。 

『ちえり、さっきの話だけど……旅行に行くなら俺も旅館がいい。温泉入ってちえりとゆっくりしたい』

 小声で甘く囁いた瑞貴が宝石のような片方の瞳をつぶって、ちょっと照れたように微笑んだ。

「ぎゃあぁああっ」

 飛び上がったちえりは手の中にあるグラスをあわや落としてしまうほどに驚き、その声は小声で留まりきらずにしっかりと大声となって室内へ響く。

「……またカエル潰したみたいな声出しやがって……」

 ドスドスと怒りを込めた足音を響かせちえりに近づいてきた鳥居は「お前の声は公害だ」と噛み付かんばかりの勢いで詰め寄る。

「ご、ごめっ……」

 建物がいくら社宅と言えど、周囲のひとに迷惑をかけて疎ましく思われてしまうのはこの部屋の主である鳥居なのだ。

「あ、でも……お隣さんはセンパイの部屋……むぐっ!!」

『黙ってろ』

 鳥居の大きな手で両頬を摑まれたちえりは数字の3のような唇になりながら、小声で耳打ちしてきた鳥居の言葉に(……しまった!)と、言ってはいけないことを口にしたことを悟る。

「ほんと仲良しだね。鳥居っちとちえりっち。鳥居っちがこんなに構うのってちえりっちだけだよ?」

 今度は長谷川が余計な一言をサラリと発する。

「んぶっ!!」

(やめてぇええっ!! そういうのセンパイに勘違いされたくないんですっ!!)

 唇が3になっているちえりの声は口の中で押し潰されて言葉にならない。

(カエルみたいに喉を膨らませて声を出せたらいいのに!!)人間でそれができてしまったらそれはそれでビックリ人間になってしまうが、取り柄のないちえりには、今! ここで!! すぐ使いたい技!!! である。

「本当にお似合いね。……瑞貴もそう思うでしょ?」

 鍋の準備を終えた女子力最強の三浦がフンッと鼻を鳴らしながらここぞとばかりに会話に参戦してくる。顔を固定されているちえりは瑞貴の顔が見えず不安ばかりが大きくなっているところに後頭部の方向から低い声がやってきた。

「……思わないよ、俺は。手が空いてるならこれ運んでくれ」

「っ!!」

(瑞貴センパイッッ!)

 相変わらず唇はそのままのちえりは瑞貴の言葉に感動の涙を流しそうになったが、とてもそんな楽観視できるものではなかった。
 ちえりから手を放せとは言わず、冷やしていた飲み物を鳥居の前にズイッと押し付けた瑞貴。自然とふたりが離れるよう仕向けた動作であることは誰の目にも明らかで――

「…………」

 面白くないという顔を露骨に出す三浦理穂と、「おやおや~?」と目を輝かせた長谷川。
 不穏な空気が渦巻いた鍋パーティの空気はもはや闇鍋と化しており、食しているものの味がわからなくなるほどに険悪なものだった。